アパートのピンポンというチャイムの音が鳴ったのは、街もそろそろ寝静まろうとしている22時を過ぎた頃だった。
「おーい、水戸ぉ、いるんだろ?」
帰宅時にそのまま電子レンジに突っ込んだコンビニ弁当がちょうど温まったところだった。ケトルの湯も沸いたようなので、ちらりとそちらに目をやる。この時間にアポなしでやってくるような不躾な知り合いは一人しかいない。そしてこの寒さの中、万が一放っておきでもしたらその先輩はどんどん機嫌が悪くなるに違いない。インスタントの味噌汁に湯を入れるのは後回しにして、ひとまず玄関の鍵を開けてやる。
ドアの前には、予想通りの人物が闇を背にして立っていた。
「遅い!」
文句を言いつつ三井はいつも通り強引に、しかし靴はきちんと揃えて部屋の中に入って来る。
「何? 俺、これからメシ食うんですけど」
そんな水戸の抗議の言葉などまるっきり無視して、三井は勝手知ったる様子で部屋の奥までさっさと進んでいく。そして、その辺に散らかっている雑誌や脱ぎっぱなしの服などを適当にどかすと、そのままドカッと床に座った。これでは一体、どちらが部屋の主だかわからない。水戸は苦笑しながら、弁当と味噌汁を持って三井の隣に腰を下ろした。
「で、何? こんな時間にどうしたの?」
三井がこんな時間にやってくるなど、理由は一つしかないのだが一応聞いてやる。
「……した」
「え?」
「流川と喧嘩した」
だろうね、と思いながらも、そのまま口に出せば面倒なことになるとわかっているので何も言わない。一緒に暮らしている流川とどうせまたくだらないことで言い合いになり、「もう知らねぇ!」とかなんとか言って、飛び出して来たのだろう。
「それなら早く謝って、帰りなよ」
「やだ。あいつが悪りぃ」
こうやって三井がこの部屋に駆け込んで来たのは、一度や二度のことではない。しかもそれは全て流川絡みで、毎回原因を聞いたところで水戸には恋人同士のちょっとした痴話喧嘩としか思えないのだが、本人としてはどうしても許せないほどの深刻さらしい。
「だってもうこんな時間じゃん。三井さん、明日も仕事でしょ?」
「そう。だから泊めて」
「それは無理」
大して美味くもないおかずを口に運びつつ、水戸はなるべく感情が声にのらないように注意を払いながら返事をした。
「なんで」
「毎回言ってるでしょ。他人が同じ空間にいるのが好きじゃないの、俺」
やってられないな、と思った。本当にやっていられない。
ねぇ三井さん、こうやってあんたがウチに来るたび、俺がどれだけの理性を総動員してると思ってるの。どうして他人、だなんて敢えて冷たい言葉を選んでると思ってるの。
「まぁ、流川が迎えに来るまでだったらここにいてもいいから。ビールでも飲む?」
三井は何も言わず、コクリと頷いた。
それを見て、ちょっと言い過ぎたかな、と思った。それでもたまに、無神経を装って残酷に振る舞いたくなる。三井の無意識の残酷さで傷つけられたのと同じだけ、自分も返してやりたくなるのだ。
冷蔵庫から買い置きのビールを取り出し三井に渡してやると、水戸は無言で煙草に火を点けた。
いつの間にか、灰皿が吸い殻でいっぱいになった。窓の外はもうすっかり真夜中の様相を呈している。
三井は机に突っ伏して眠っている。流川の愚痴を散々言い終えたところで力尽きたのだ。しかも最後の方は「それでも俺はあいつのことが可愛くて大好きなんだよー」なんて、愚痴なんだか惚気なんだかよく分からないことになっていた気がする。その横で、床の上に置きっぱなしにしてある三井の携帯が、さっきからずっと着信を受けて震え続けていた。誰が掛けてきているかなんて、その画面を見なくても明白だ。
窓辺に座り、静かに眠る男をしばらく眺めた。それから少しだけ窓を開け、最後の一本に火を点けた。吐き出された煙と息は、白く混じり合い冬の夜空にのぼっては消えていく。
最後の一筋が闇に溶けるまで、水戸は窓辺から動かずにいた。
そのうち、今度は水戸の携帯に着信がくるだろう。それでもギリギリまで掛けて来ないのは、彼のプライドからくるものか、それとも三井がここにいるのだと最後の最後まで認めたくないからか、またはそのどちらもか。
きっと流川は、水戸の気持ちに気付いている。だから、三井をここに来させたくなんてないはずなのに、あの性格だから、いざ言い合いになると自分から折れることができないのだろう。
やってられないな、と思った。本当にやっていられない。
自分の気持ちを隠してなんでもない顔をしながら三井のそばにいる自分も、知らないふりを通す流川も、こうやって無意識に周りを傷つけている三井も。そして何より、これから1時間もしないうちに「先輩が迷惑かけて悪かったな」「全然、気にしなくて大丈夫だから」なんて、互いに全て気付いているのに何も気付かないふりをして演じるであろう、茶番劇に嫌気がさす。
三井の髪の先に、小さな煙草の灰がついていた。慎重に、指でそっと払ってやる。そしてそのままサラサラと茶色の髪を優しく撫でた。
あの恐ろしいほどに美しい三井の恋人は、どんな顔をしてここへやって来るのだろう。
そう思ったところで、水戸の携帯が震えた。向こうが覚悟を決めて掛けてきたのだから、無視するわけにはいかぬまい。無音で震えるそれをポケットから取り出し、表示された画面を見て予想通りの名前を確認すると、水戸は、ふぅ、と深呼吸のようにひとつ大きく息をした。