俺の渡米を翌週に控えた、土曜の午後。
何回来たかわからない先輩の1Kの部屋のベッドに背をもたれかけながら、高校の卒業式のことや先輩の大学のこと、近所の猫に子供が生まれたなんていう本当に当たり障りのない、どうでもいいような話をしていた。そのはずなのに。
「いよいよ来週だな」
先輩が笑いながらあまりにも自然にそう言ったので、思わず反応が遅れてしまった。
「……ウス」
先輩は、2年前からずっと俺のアメリカ行きを応援してくれている。それはきっと、他の誰よりも。しかし、それがいざ間近に迫ってくるとその話題を出すのはなんとなく憚れて、タブーのような扱いになっていた。口に出さないからといって、現実が変わるわけでもないけれど。
それでも、別れよう、なんて言葉はお互い絶対に口にしない。ケンカみたいな言い合いを繰り返しながらも、いつだって先輩を手放したくないと思っている。
やっぱ向こうに行ったらハンバーガーとピザばっかなのかな、ルームメイトがいい奴だといいな、お前は基本無口だけどコミュニケーションはちゃんと取るんだぞ、なんて一人でペラペラ喋っている先輩を見ながら、なんともいえない感情が腹の奥からせり上がってくる。
「ねぇ、先輩」
俺はそう言いながら、迷わず先輩の肩を抱いた。シャツの襟から滑り込ませた手で二の腕を辿る。そこから伸びる、素肌の感触。
「なんだよ? くすぐったい」
間近に迫った先輩の唇は、ほんのりと温かい。
「先に、風呂入る?」
「サカってんじゃねーよ。バーカ」
一緒に入るか? とは、聞かれない。付き合ったばかりの頃は聞かれていたような気もするが、もはや互いにそんな恥じらいはない。
「お前、なんかデッカくなったよな?」
男二人で入るには少し狭い浴槽の中で、先輩を抱えて座る。そして、背中を丸めて腕の中に収まっている先輩の、形のいい後頭部を見つめた。
「身長? どうだろ。最近測ってねーし」
「いや、そうじゃなくて。ガタイ良くなったんじゃねーか、ってこと」
「自分じゃよくわかんねぇっす」
そう言って、目の前のうなじに噛み付く。
「こら、まだダメだ」
先輩が笑いながら、身体をこちらに向けた。そして俺の脚の上に座り、肩口に顔を押し付けてぎゅっと抱きついてきた。
「……まだダメなんじゃねーの?」
「お前と一緒にすんな」
むき出しの肌に触れる、先輩の濡れた髪と温かな吐息。
重くのしかかる、二人の時間。まさか自分がこんな気持ちになるとは思わなかった。
「ちょっとだけ」
ーーこうさせろ。
最後の方は言葉にならなくて、そのまま浴室の床に先輩の声が落ちた。
「来週の今頃はもう、一緒にいられないんだから」
体温を味わうように、すがりついて。
先輩は絶対に「寂しい」とは言わない。でも、その声の温度から何を考えているかなんて手に取るようにわかってしまう。
でも、本当は。
きっと俺の方が寂しくて、離れたくないって思ってる。
そう言ったら、先輩は、どんな顔をしただろう。
<fin.>