トレジャーボックス《リョ三》

 今まで、どれだけたくさんのものを手放してきたのだろう。
 沖縄の平屋から神奈川の団地に移り住んだとき。そこから異国の地、アメリカで寮生活を始めたとき。家のサイズが小さくなるにつれ、自然と荷物は少なくなり、自分にとって「本当に大切なもの」だけが残っていった。選択肢は少ない方が、いざという時に迷わなくて済む。
 そして先日、宮城はその中でも特に大切にしていたものを手放した。

「俺、やっぱこっちの空気の方が合ってるような気がするんですよね」
 三井には、電話でそれだけ伝えた。別れよう、とも待っててほしい、とも言わなかった。当初は大学卒業とともに日本へ戻る予定だった約束を勝手に反故にしたのは自分なのだから、考えどころも決定権も三井の方にあると思った。
 それなのに。
「そっか」
 三井の返事は、たったそれだけだった。別れよう、とも待ってる、とも言われなかった。何となく互いに無言になったので、「それじゃ、元気で」と言って電話を切った。それから一度も連絡を取っていない。きっと、終わったのだと思う。終わりはあまりにも、あっけなかった。先に手を離したのは自分のはずなのに、今もまだその手の温もりを忘れられずにいる。

 ーーなに、アンタ、諦めが悪いんじゃなかったの?

 バスケ部襲撃なんていう前代未聞の大事件を起こした張本人は、暴力沙汰を色濃く残した顔の痣とサラサラのロン毛をバッサリ切って、体育館に戻ってきた。「俺は諦めが悪いんだよ」と言い放ち、自分の隣で深く頭を下げたその姿を、宮城は一生忘れないと思う。「どのツラ下げて」とか「何を今さら」とか、言いたいことはたくさんあったような気がしたけれど、彼のやけに綺麗なつむじを横から眺めていたら、何だかそういうのが全部どうでもよくなった。それに、三井がバスケをどれだけ愛しているかなんて、ずっとずっと前から知っているのだ。
 だから、つまり、そういうことなんだろう。
 誰よりプライドの高い男が、世界一かっこ悪い己の姿を晒してまで、諦めきれなかったバスケットボール。そんな彼を知っているからこそ、心のどこかで三井が「待ってる」と言ってくれるのを期待していた。俺のことは、簡単に諦めちゃうんですねーーなんて。バスケと自分を同列に扱うこと自体、きっとおこがましい。

 いつの間にか、手の震えは止まっていた。
 ーーあぁそうか、怖かったんだ。
 三井に「別れよう」とか「俺たちもう終わりにしよう」とか、そういう直接的な言葉を告げられるのが怖かった。自分の手のひらをグーパーと開けたり閉じたりしながら、最後に話したのが電話で良かったな、と思う。直接顔を見て話したら、きっと気づかれてしまう。未練とか、まだ彼を好きな気持ちとか。それらをぐっと飲み込んで、電話越しでは精一杯「平気なふり」ができていただろうか。
「さよなら、三井サン」
 誰に聞かせるわけでもなく、ひとりつぶやいた。本当に自分は、大切な人との別れ際が下手くそだと思う。子どもの頃からずっとそうだ。
 ーーいつまでも学ばねぇな、俺も。
 またひとつ、大切なものを手放した。でも、大丈夫。バスケットボールとシューズさえあれば、きっと自分はこれから先もずっとやっていける。

 その日の夜、夢を見た。
 中1の自分と中2の三井が公園でワンオンをしているあの日の夢。素直さなんてものは全部沖縄に置いてきてしまったから、当時のスカした態度は本当に酷かったはずなのに、夢の中では笑顔で三井と対峙している。あの時の態度はさすがになかったよな、と後になって散々後悔した。ひとりぼっちだった自分に、初めて声をかけてくれたひと。クソみたいな毎日を過ごしていたあの頃、拠り所だったバスケをただ一人、大切に扱ってくれたひと。自分が知る中で、誰よりも美しいスリーポイントを打つひと。

 たぶん、あれが、初恋だった。

 *

 10月に入ると、キャンパスや学生寮の中もハロウィン仕様の装飾が増えてくる。留学1年目は、本場のハロウィンだー! とか言って、三井にテレビ電話したんだっけ。懐かしい、ほんの少しの感慨とともにチクリと胸が痛んだけれど、それには気づかないフリをした。大丈夫、ちゃんと思い出にできている。
「リョータ、待ち合わせの人が来てるよ」
 突然、上から降ってきた声でふと我に返った。
 チームのマネージャーにそう呼ばれると、宮城はぼんやり食べていたサンドイッチを口の中に突っ込み、急いで席を立った。

 来客は、すでにロビーで待っていた。つい最近、米国支社に配属された日本人記者だと聞いている。なんでも、宮城をはじめ沢北、流川といったアメリカにバスケ留学している学生たちの特集を組むことになったので、取材をさせてほしいとのことらしい。
 白シャツに黒のテーパードパンツを合わせている男性だ。シンプルな装いだが、彼のスタイルの良さも相まって遠目から見てもかなり目立つ。
 お待たせしました、と言いながら、既のところで宮城の足が止まった。
 相手の男性が顔を上げる。ーー記憶の中のあの人とうまく一致しない。だって、どうして、なんでこんなところに。あまりの急な事態を飲み込めず、未だ硬直している宮城をよそに、目の前のその人はにっこりと笑って名刺を差し出した。
「どうも、お時間とっていただいてありがとうございます。ーー社の三井寿です」

「お忙しいときにすみません、宮城選手。それでは早速、来月から始まるリーグ戦に向けて抱負や目標がありましたら、お聞かせ頂けますか?」
 にこやかにマイクを向け、そんなことを続ける三井を宮城は思わず手で制した。
「ちょっと待って、え? なんで? なんでアンタがここにいるの?」
「宮城選手にとっては、大学最後のシーズンとなるわけですが……」
「いや、だからちょっと待ってって」
 ねじ込むような宮城の口調に、思わず三井が苦笑する。
「なんですか。口悪いですよ。だから恋人にも愛想尽かされるんじゃないですか」
「ハァ!? 別に愛想尽かされてなんか……てか人の質問に答えろよ!」
「うるせーな、俺は諦めが悪いんだよ」
 その言葉に、宮城が弾かれたように顔を上げた。目の前にあるのは、高校時代となんら変わらない、妙に白い差し歯といつまでも消えない顎傷が目立つ笑顔で。両方とも、高校時代に自分がつけたモノなのだと思うとたまらない気持ちになる。
「つーかお前、演技が下手くそすぎんだよ。あんな声であんな電話寄越しやがって。どう考えたって未練タラタラじゃねーか」
「いや、だって……俺は沢北や流川みたいに引く手あまたで有名なプレイヤーじゃねえし、これからどうなるかも……」
「うっせぇ、2回も言わせんな」
 言い訳じみた言葉を並べる宮城を遮るように、勝ち誇った口調で三井は笑った。
「俺は諦めが悪いんだよ」
 聞くや否や、宮城はその体を力いっぱい抱き締め、ぎゅうぎゅうと目の前の肩口に目一杯顔を擦り寄せた。そのまま、いつか見惚れた横顔に唇を寄せる。
「……ねぇ三井サン。俺、アンタのこと手放せそうにないんだけど、いいの?」
「あ? 別に手放されねーし。つーか感謝しろよ、お前のためにわざわざこっちに支社があるトコに絞って就活したんだからな」
 当たり前だろ、というような三井の口調に、それまで抱えていたはずのグルグルした不安とか、そういうのが全部どうでもよくなって、結局抱きあったまま、久しぶりにふたりでたくさんくだらない話をした。三井が自分のことを諦めないでいてくれた、ここまで来てくれた、一緒にいる理由なんかそれだけで十分だった。

「リョータ、知り合い?」
「え? 昔のスクールメイト?」
 どれだけそうしていたのだろう。
 いつの間にかふたりの周りにわらわらと集まってきたチームメイト達に、三井はにこやかに挨拶をすると「宮城選手について伺ってもいいですか?」とごく自然にインタビューを始めた。あぁ、そういえばこういう人だった。初対面の相手の心をこんなにもすぐに鷲掴みにするスキル。どんなコミュニティに入っても、彼を中心に人が集まってくるのはおそらく天性だ。
 そんなことを考えながら少し離れて様子を見ていると、インタビューの最後に三井が「今後もうちの宮城がお世話になります」と含みのある笑顔を浮かべた。その瞬間、周囲がざわりと色めきだつ。本人的には牽制しているつもりなのかもしれないが、そんなものは全く逆効果なのがわかっていない。おそらく早急な決断と牽制を迫られるのは、宮城の方だろう。

 勘弁してよ、と思いながらも、こうやって三井に振り回されるのも嫌いじゃない自分に気づく。会えなかった今までの日々に比べれば、ずっとずっと幸せだ。
 バスケットボールとシューズと三井寿。これさえあれば、きっとこれから先、どこへ行ったとしても自分はやっていける。そんな気がした。

<fin.>