ずっと、君を見てた
誰かが誰かを想うように
自分も誰かに想われる日が来るのだろうか
これは、僕らの夏の物語だ
*
「先輩、ワンオンお願いします」
特にこれといって、仲がいいわけでも悪いわけでもない。
ただの「部活の先輩と後輩」。それ以上でもそれ以下でもなかったはずの二人の関係が、少しずつ変わっていったのはいつの頃からだったか。
安西に、自分はまだ仙道に及ばない、と言われたこと。そして同時に与えられた「日本一の高校生になる」という明確な目標。その二つが流川を駆り立て、突き動かした。このままでは足りない、そう思った流川が迷わず声をかけたのが、三井だった。
もう誰にも負けたくない、誰よりも強くなりたい流川にとって、元中学MVPであり抜群のバスケセンスをもつ三井はこの上ない相手だった。
体格や筋力、スピード等といったフィジカルや身体能力の面では圧倒的に流川の方が上であったが、勝敗はいつも五分五分。「オレが1年に負けるわけにはいかねーだろ」と三井は笑うが、普段から近くで見ていることを踏まえても、数々の実力者たちを圧倒してきた流川をここまで抑え込むディフェンス力やパワーに頼らない多彩なオフェンスワークなど、三井との1ON1から学ぶべきことは多い。
この人が2年間のブランクなしに過ごしていたら、一体どこまでの選手になっていたのだろう――とさすがの流川も思わなくもないが、タラレバで物事を考えても意味がないので、すぐにやめた。
過去は過去だ。それに、過去の後悔や懺悔をひっくるめた絶妙なバランスで成り立っているのが今の三井であり、それが彼の魅力でもある。
同時に、自分がまだ「仙道に及ばない」理由、そして仙道本人からも言われた「お前には負ける気がしねぇ」という言葉の意味を考える。この、不思議な魅力をもった先輩との勝負を重ねていくうちに、なんとなくその意味がわかるのではないかという気がしていた。
「三井サーン! 帰りますよー!」
「おい、ミッチー! 今日はこの天才にラーメンをごちそうしてくれる約束だったろう!」
突然ガチャン、という音がしたかと思うと、体育館の入り口からいつの間にか着替えを済ませたらしい宮城と桜木が顔を出した。
「お、もうそんな時間か」
そう言って体育館の壁時計を見た三井が、流川の方を向く。
「悪りぃな、流川。今日、あいつらと約束してたんだ。この続きはまた明日の練習終わりでもいいか?」
1本1点――線を踏んだ踏まないで揉めてからはずっとこのルールである――の5点先取で始まったこの勝負は、お互い3点ずつ取ったところだった。
「……ッス。ありがとうございました」
「お前はまだやってくか?」
こくん、と流川が頷くと、「それじゃ、戸締りよろしくな」と言って三井はボールを渡し、ニカッと笑いながらひらひらと手を振って体育館を出ていった。
――この続きはまた明日の練習終わりでもいいか?
先ほど言われた言葉をゆっくりと反芻する。「また明日」と三井は言った。
また明日、三井と1ON1ができる。たったそれだけのことなのに、なぜか流川の心の中は充足感でいっぱいだった。
「……また、明日」
その言葉が、とろりと甘く胸に響く。なんだかそれがものすごく嬉しくて、明日が待ち遠しくて仕方なかった。
*
7月も後半に差し掛かり、太陽は容赦なく照りつけ、空はどこまでも青い。
うだるような暑さのせいで、部活が終わってしばらく経っても汗が引くことはない。公立校である湘北高校の部室にクーラーなどという気の利いたものがあるわけもなく、それなりにガタイのいい男たちが集まればその熱気もなおさらである。
「青春してぇぇぇぇぇぇぇぇーーーーーーーー!!!!!!」
シャワーという名の、つまりは水道での水浴びが終わり、各自が髪や身体をタオルでガシガシと拭く中、周りの部室にも聞こえるような大声で宮城が叫んだ。
「うるせえよ、お前」
ジャージに着替えながらしかめっ面で三井が返すも、宮城はめげない。
「だって! 考えてみてもくださいよ! 今日からせっかくの夏休みだってのに! 毎日、部活部活部活部活部活……ってそればっかじゃないっすか!」
「何言ってんだお前。毎日何時間も安西先生と過ごせるなんて最高じゃねーか」
「俺は三井サンと違って、安西先生ファンクラブには入ってねーの!」
インターハイ初出場を決めたバスケ部は大会までの間、体育館の使用に関して、他部活からの好意でかなり融通を利かせてもらったスケジュールとなっている。良くも悪くも文字通り、練習漬けの毎日だ。
「せっかくの夏休みなんだから、アヤちゃんと夏祭り! とか、アヤちゃんと花火! とか、アヤちゃんと海! とかさぁ……なんかこう、色気のあるイベント必須でしょ!」
「彩子とだったら部活で毎日会ってんじゃねーか」
「そういう問題じゃないの! ……あ、来週の静岡合宿で1日くらい花火とかできないですかね? 三井サン、3年なんだから何とかしてよ」
宮城は名案を思いついた、と言わんばかりにキラキラした目で三井を見つめる。
「ンなの知らねーよ。赤木に頼めば?」
「赤木のダンナ、いいって言いますかねー? 変なとこカタイからなーあのヒト。でもなぁ流川、お前も花火したいよな?」
「興味ないっす」
秒で返ってきた流川の即答に対し、宮城は聞く相手を間違えたとばかりにすぐに桜木の方を向く。
「なぁ、花道。せっかくの夏休みなんだし、花火くらいしたいよな?」
「ぬ? 花火だと?」
今度はしっかり食いついてきた桜木と二人で、ああでもないこうでもないと「まずは木暮サンに頼んでみよう」なんて作戦を練る宮城の様子を見ながら、三井は「はぁ…」とため息をついた。
このエネルギーは一体どこから湧いて来るのか不思議に思う。そしてそのまま「それじゃお先」と言い残し、部室を後にした。
夏休みの学校は、なんとなくいつものそれと空気が違う。
校庭からはサッカー部の掛け声やホイッスルの音が聞こえ、体育館からは男子と入れ替わりで練習する女子バスケ部が楽しげに準備している音、武道場からは剣道部の気迫あふれる大声や竹刀と竹刀が激しくぶつかり合う音が聞こえてくる。
それなのに、いつもの高校ならではの騒々しさが影を潜め、静かな気がするから不思議だ。非日常感とでもいうのだろうか。こういうのも嫌いじゃない。
次々と耳に入ってくる様々な音をBGMがわりに聞き流しながら、三井は校門を抜け、裏道に入った。時間は午後1時をまわったところで、最も暑い時間帯だ。部活でただでさえ疲れているというのに、炎天下の中を歩くのは少ししんどい。なるべく木陰になっているところを選びながら、駅までの道のりを急ぐ。
そういえば、夏休みにこんな暑い道を一人で歩いて帰るなんて久しぶりだな……と気付いた。
正しくは、2年ぶりか。去年までは、移動する時はだいたい鉄男のバイクの後ろに乗せてもらっていたし、そもそも夏休みの学校に用なんてなかった。
「青春、ねぇ……」
先ほど、宮城が叫んでいた言葉を思い出す。自分にとっては、こうやって仲間と一緒に毎日バカみたいにバスケに明け暮れているこの日々こそが青春なんじゃないか、なんてガラにもないことが頭によぎった、その時。
――チリン……
「流川……?」
「……ッス。お疲れっす」
後ろから聞こえた自転車のベルの音に振り返ると、同じく練習帰りである無口で無愛想な後輩の姿が見えた。てっきりそのまま自分を追い越して行くのかと思いきや、何を思ったか流川はつけていたイヤホンを外し、自転車を降りてそのまま押しながら三井の横を歩き始めた。予想しなかった彼の行動に、三井は戸惑いを隠せない。
「……めっ……ずらしいな、お前が居残りしないで帰るなんて……」
「今日は午後から女子だから」
「……そ、そうだよな……あはは」
――後輩相手にどもってんじゃねぇ、俺!
なんせ、相手はあの流川だ。会話が続かない。1ON1の時は、その時その時のプレイについて話していればいいが、今の状況は違う。何を話せばいいかわからない。三井は基本的に沈黙に耐えられないし、沈黙が心地よい、という意味がさっぱり理解できない男である。
「……先輩は? 一人で帰るのメズラシイ」
しかし、予想に反して流川の方から話題を振ってくるではないか。そして「いつもはだいたい、どあほうとかミヤギ先輩とかがいる」と続ける流川に対し、マジで珍しいな、雨でも降るんじゃないかと思いつつ、三井は返す。
「ああ、今日はちょっと病院にな……」
「病院? どっか悪いの?」
「いや、予選でだいぶ無理したからな……インハイ前に一応膝を診てもらおうと思ってよ。合宿もあるし。大きい試合の前にはそうしてんだ」
それなら良かった、と流川は頷く。この期に及んで三井に何かあって抜けられたら……なんて考えただけで痛いし、考えたくもない。そして、さらに流川は三井が想像しなかったことを口にした。
「先輩、うしろ乗ってく?」
自分でも、どうしてそんなことを言ったのかわからない。――魔が差した、とでもいうべきか。駅なんて寄ったら遠回りだし、さっさと帰って昼寝をしたら、夕方からいつもの公園で自主練をしようと思っていた。自分にとって、バスケはいつでもどんなときも最優先事項だ。
――それなのに、なぜ?
そもそも、どうしてあのまま三井を追い越して帰らなかったのかもわからないし、人との関わりを最低限にして生きてきた自分が、わざわざ自転車を降りてまで三井の横を歩こうとしたのかさえわからない。
無意識だった。ただそうしたかったから、としか言いようがない。もちろん誰かを乗せたのだって、初めてだ。とにかく今、その三井は自分の後ろに座って足をぶらぶらさせている。
「いやぁ、快適。このクソ暑い中、歩いて帰るのダリぃからな。まじで助かるわ」
「それなら、よかった」
三井の軽やかな声に、流川はなんとなく安心しながら答える。きっとこの人は今、ご機嫌な顔で笑っているんだろうな、なんて思いながら。
「自転車乗ってると、風が気持ちいいよなぁ……お、風鈴の音がする」
三井は楽しげに続けた。
「ひまわりもきれいに咲いてるしよ……なんかこう、風鈴とかひまわりとか見ると、夏が始まった! って合図な気がしねぇ?」
そんなこと、考えたこともなかった。
「自分には関係ねぇと思ってたっす」
「なんだ、それ。おい流川、こういうのも青春だぜ、青春!」
夏はみんな平等に来んだからよ、と三井は楽しそうに笑った。
「じゃあな、流川。ホント助かった。サンキュな」
「……っす」
また明日、と改札に消えて行く三井の後ろ姿を見送ると、流川は再びペダルに力を込めた。
――夏が始まった! って合図な気がしねぇ?
自転車を走らせると、今度は三井に言われるまでまるで気がつかなかった風鈴のチリンという音が聞こえ、ひまわりの黄色が目に入ってきた。風は気持ちいいし、なんなら青空の匂いもわかるような気がしてくるから不思議だ。
もしかしたら三井には、自分とはちがう世界が見えているのかもしれない、と思った。そして家路を急ぎながら、自分はさっきまで無意識に自転車のスピードを落としていたことに気がついた。
*
「……先生がいいだしたことなんだ」
新幹線が新横浜駅を滑るように走りだし、部員たちはボストンバッグを荷棚にあげたり飲み物や菓子を近くに置いたりして、準備ができた者から席に腰を下ろす。
「おい宮城、オメーの荷物、かわりに上にあげてやろうか? 届かねえだろ?」
「うっせーよ! それくらい自分でできるっつーの!」
移動中も相変わらずの三井と宮城のやりとりを横目に、流川は一足早く自席に腰掛けると駅で買ったペットボトルの蓋を開けた。浜松までは約1時間。そこからバスに乗り、常誠高校に着けば午後からすぐに練習だ。
このまま一眠りするのも悪くない――と意識を手放そうとしたそのとき、赤木の低い声が耳に入ってきた。
「――ってことだ」
「なるほど……!」
“チーム練習よりも、徹底した個人練習を。”
たしかに、桜木にはその方が合っているかもしれないと赤木の話を聞きながらぼんやりと流川も思う。たかだか3ヶ月やそこらで、翔陽・海南・陵南といった神奈川の超強豪校の、しかもレギュラーメンバーたちを相手に曲がりなりにも渡り合えるなど、やはり桜木は普通の素人ではないと流川自身も感じていた。
「あのヤロウ、安西先生につきっきりで指導してもらえんのか?」
「なんてゼータクな!」
そして、目の前に座る騒がしい上級生2人を眺めながら、やはりこの小さいポイントガードの先輩も“安西先生ファンクラブ”の会員なのではないかと、いつぞやの部室での会話を思い出す。
――おい流川、こういうのも青春だぜ、青春!
あの日、初めて誰かを自転車の後ろに乗せた。青空の匂い、ひまわりの黄色、風鈴のチリンという音。ぶらぶらさせていた足、ご機嫌で楽しそうな声、後ろから微かに香った三井の匂い。
あのときの体温が、一気にぶわっと蘇る。あれ以来、二人で帰ることはもちろん、三井を後ろに乗せる機会もなかった。ただ、なんだかとても心地のいい時間だったように思う。誰かと一緒にいることで、心が満たされる経験など初めてだった。
できればもう一度――と思っても、三井の側にはいつも桜木や宮城をはじめ、必ず誰かしらがいた。つい先日、体育館に殴り込みに来たことなど全員が忘れてしまったかのように、彼の持つ華やかさと元々の面倒見の良さも相まって、今ではすっかり部の中心に収まっている先輩。
そんな三井の隣にいる術を、流川は知らない。だからこそ、今日も当たり前のように三井の隣に座る宮城を羨ましいと思った。三井が宮城側のひじ掛けに重心を傾けていることもあり、二人の距離はかなり近い。あの距離であれば、またあの時のように三井の匂いがするかもしれない。
――なんて。流川のそんな淡い感情は、赤木の容赦ない一声にあっさり断ち切られた。
「1cmケツ上げーーっ!!」
浜松まで、残り1時間。先は長い。
*
ものすごく気分が良い。海の上にぷかぷか浮かんでいるような、涼しい木陰で寝転んでいるような。夢か現実か、もしかしたらその境界線かもしれない。とてつもない充足感。そして、自分はこの感覚を知っている気がする。
その時、ふわっと心地よい匂いがした。ああそうだ、たしかこれは――。
「……お、起きたか」
目を開けると、そこには穏やかに笑う三井がいた。
「先輩……?」
自分の頭の上に置かれた三井の手。そしてそれは、流川をあやすように優しく撫でている。先ほど感じた充足感はこれか、そう思った直後。
「あ、悪ぃ……」
そう詫びて離れようとする手に、イヤイヤというように頭を振った。一瞬迷った手が、結局もう一度戻ってくる。
――やめないで。
喉の奥で呟くと、それが聞こえたのかどうか、その手はまた優しく撫で始めた。
「ポカリ買いに降りて来たらよ、ここでお前が寝てたから。なんとなく」
そうだった。自分も風呂上がり、飲み物を買いにロビーへやって来たのだ。そして、ソファーに座って休んでいたら、ついそのまま。
「さすがのお前でも疲れたか」
合宿5日目。静岡No.1かつ全国ベスト8の強豪である常誠高校との合同練習が生ぬるい訳もなく、連日のハードワークに身体中が悲鳴をあげている。
「にしても、午前中のフットワークがキッツいよなぁーあのインターバルやばくね? DFFもだけど。オレ、もともとああいうの嫌いだし、2年もサボってたから結構本気で死ぬかと思ったわ」
「わかる気がする」
ああいった練習が好きだという奇特な人間にはまだ出会ったことがないが、特にこの先輩が嬉々としてフットワークに臨む姿など全く想像できない。
「だけどやっぱ、強豪校ってのはどこもこういう鬼みたいなフットワークを徹底的にやってんだな。海南なんてもっとエグいんじゃねーの? 新入部員が1年で8割以上辞めるって聞くし」
「……海南」
流川は、自分のスタミナが前半で尽きた先日の海南戦を思い出す。
しかし海南の選手はあの時、誰一人として最後まで息すら切れていなかった。体力オバケである同級生の清田しかり。
海南が“常勝”である理由。それは、『血のにじむような反復練習』が全てだと監督である高頭は言い切る。つまり、普段からの練習量が桁違いなのだ。
「しっかしお前は文句ひとつ言わねーよな。しかも朝も一人でこの辺走ってるんだって? 桑田から聞いた」
「もう誰にも負けたくないから」
二度とあんな思いはしない、と流川は決めていた。
そのためならば、どんなつらいフットワークであろうとなんだろうと苦でもなんでもない。
「たしかにそうだよな……オレもあの時、最後清田にとめられちまったし、ああいうところに普段からの練習量の差が出るのかもな」
「それと、先輩はスタミナ」
「うるせえ! それはおめーもだろ!」
パチン、と三井は流川の頭をはたくと、その手はそのまま離れていった。
それを少し寂しいと感じつつも、流川は続ける。
「……今日のスリーメン、びっくりした。ラスト5本でアレって超強気」
三井がいう『鬼みたいなフットワーク』の一つに『100本連続スリーメン』がある。その名の通り、全員で連続100本のスリーメンを決めるというもの。もちろん、誰かがミスしたらまたゼロからやり直し。
100本に到達するまで永遠に終わらないので、数が増えれば増えるほどその分シューターのプレッシャーは大きい。そのため、より確実なレイアップで終わるのが普通だが、何を考えたのか三井は今日、100本まで残り5本というところでスリーポイントを選択した。
湘北勢はもちろん、常誠の部員や監督でさえもギョッとした。入ったからいいものの、外せば全員でやり直し、それなのに。
「練習で入らねーもんは、試合でも入らねーんだよ」
当然だろ、と言うように三井は答えた。
「試合でいったら残り1分切ったところで、5点差ってとこ? 決めるしかねーだろ。体力的にもキツくなってきたとこで、ハンパないプレッシャーな。最高のシチュエーションじゃねーか。練習ですらビビって打てない奴は、試合でも絶対打たねーし、たとえ打ったとしても入らねーよ」
この先輩は、たまにこういった芯をつくようなことをさらっと言う。
練習で入らないシュートは試合でも入らない、全くもってその通りだ。そしてその1本のシュートで勝つことも、負けることもある。
逆を言えば、普段からいかに試合を意識して練習ができているか。言葉にするのは簡単だが、本当にできているかどうかは別の話である。実際、あの場面で三井と同じ選択をできる選手は少なくとも、あの中には誰一人としていなかった。
この人は、ものすごく高い次元でバスケをしているように思う。
そして同時に、三井とはストレスなくバスケができるとも思う。いつもいて欲しいところにいてくれて、自分が欲しい時にパスをくれる。バスケのコミュニケーション能力が非常に優れている人だ。常誠とのゲーム形式の練習を重ねるたび、その思いはどんどん強くなっていった。
「先輩が戻ってきてくれてよかったっす」
「それはどーも。てか、おめーもスゲえじゃねーか、最近。やる気? は前からあったか……なんつーか、気迫みたいなのが出てきた気がする。なんかあったのか?」
「………」
しばらく間が開いた後、流川は静かに口を開いた。
ーーこの人になら。
「……カントクに言われたっす」
「安西先生に?」
こくん、と流川は頷く。
「アメリカに行くよりも、まずは日本一の高校生になれって。あと……俺はまだ仙道には及ばないって、そう言われた」
「なるほどねぇ……」
三井は両手を頭の後ろで組むと、ソファの背もたれにギィ……と体重をかけた。
「仙道に及ばない、か……」
しばらくそのまま二人とも無言でいると、背後から聞き覚えのある大きな声がした。
「あ! 三井サン! こんなとこにいた!」
振り返ると、宮城と風呂上がりであろう木暮の姿が見えた。
「部屋に入ろうと思ったら、鍵がしまってたから困ってたんだ。三井、持ってないか?」
「あ、悪ぃ。すぐに帰るつもりだったんだけど、ちょっと話し込んじまって」
三井がポケットからガチャガチャと鍵を出すと、宮城は嬉しそうに言った。
「それより三井サン! 流川も! 例の花火、明日できることになった!」
「は? 花火?」
「そう! やっぱり木暮サンに相談して大正解!」
二人が視線を木暮に移すと、木暮はハハハ……と少し照れたように、人差し指で顎のあたりを掻きながら答えた。
「明日は最終日の前日だし、片付けとかもあるからもともと午後の練習は早めに切り上げようって常誠の方とも話してたんだ。だから、夜も少しは余裕があるんじゃないかって。それに……俺たち3年にとっては、最初で最後の夏合宿だしね。たまにはそういうのも大事じゃないかなって、赤木と」
――最初で最後。
来年の今頃は、もう今の3年生たちはいないのだ。それどころか、赤木と木暮に至ってはあと2週間もしないうちに引退だし、三井も冬には。
「と、いうわけで! 明日は、練習と片付けが終わったら民宿のチャリを借りて、言い出しっぺのオレと1年で買い出しに行きますので! いいな、流川!」
「え、めんどくさ……」
「うっせ! 先輩メーレーだ! そして青春だ! 文句言うんじゃねえ!」
宮城はビシィっと流川に指をさすと、「アヤちゃんと花火〜アヤちゃんと花火〜♪」とご機嫌に歌いながら、一つ飛ばしで階段をのぼっていった。
その様子をしばらく微笑ましげに眺めていた木暮も、三井に声をかける。
「じゃあ三井、俺たちも部屋に戻るか。赤木もそろそろ風呂から戻ってくる頃だろうし」
「そうだな、流川は? お前もいい加減、眠いんじゃねーか?」
「……ん、これだけ飲んだら帰る」
飲みかけの缶を指差すと、「そのまま寝過ごすんじゃねーぞ」と三井は笑いながらもう一度優しく流川の頭を撫で木暮とともに部屋へ向かった。
*
民宿から5分ほど歩いたところにある、少し大きめの公園。
昼間のような暑さはさすがになく、過ごしやすい。夜空には星が瞬き、高い建物もないので見上げると空が広く感じる。風が頬をかすめるが、潮の香りはしない。地元のそれとはなんだか違う気がする。なんだか急に、湘南の海が懐かしくなった。
「いいかお前ら、近隣の皆さんの迷惑になるようなことは絶対にするなよ! 大声もダメだ! 特に宮城! わかってるな!」
大きな声でそう注意する赤木に対し、「お前の声が一番でけーよ」と三井は小声でつっこむ。
「ハイハイ、わかってますよー赤木のダンナ。時間もないし、さっさと始めましょ。花火はここに置いとくんで、各自好きなのとってくださーい。バケツとチャッカマンは何個か用意してるんで、近くにあるの使ってくださいねー火の元注意で! あ、花火代は安西先生と鈴木先生からご厚志頂いてます! ありがとうございまーす!」
言い出しっぺの宮城がちゃっちゃとその場を取り仕切り、皆がわらわらと花火を取りに行く。
なんとなく三井の横に陣取った流川は、どれがいっかなーと言いながらも迷わず選んだ彼を見て、思わず鼻で笑ってしまった。
「んだよ流川、バカにしてんのか?」
「いや、あまりにも先輩っぽくて」
「これ、レーザービームみたいで好きなんだよ」
三井にぴったりな、見た目からして派手な手筒花火。
近くにあったチャッカマンで互いに点火すると、シューっという音とともに火薬の匂いが鼻についた。鮮やかな色がいくつも混じった花火に、三井は楽しそうに笑う。
「ほら、やっぱカッコよくねぇ?」
「レーザービーム?」
「そう。なんか、ガキの頃思い出すよな」
「不良は花火が好きだから、去年まで普通にやってたんじゃないの?」
「お前、そうやってナチュラルにエグってくるのまじでやめろ」
夜の闇が鮮やかな炎に照らされ、その間は三井の顔がよく見える。
三井の横顔は、すっと鼻筋が通っていて、唇は少しだけ分厚い。顎には、宮城がつけたという傷。そして、自分の真っ黒な髪とは違う、少しだけ赤みがかった茶髪。猫みたいに柔らかそうなその髪に、無性に触れてみたいと思った。
そしてなんとなく、好きだな、とも思った。
この人の、優しい匂いもコロコロ変わる表情も、バスケに対する考え方も手の温もりも。好きだなんて、あまりに平和じゃなさすぎて笑ってしまうけれど。
色とりどりの花火に、繰り返し火をつける。二人の側には誰もいない。
宮城はここぞとばかりに彩子の隣をキープして一生懸命アタック中だし、他の2年生たちは少し離れた場所からそれを眺めている。一向に振り向いてくれない美人マネージャーに対し、一途に頑張り続けるポイントガードの恋を同級生たちもなんやかんやで応援しているのだ。
流川以外の1年生トリオはねずみ花火に火を点けて走り回り、赤木と木暮はベンチに座って何か話しながらそれを優しく見守っている。
自由で穏やかな、最後の夜。
「桜木も来れたらよかったんだけどなー」
その時、ポツリと三井がこぼした。
「あいつ、安西先生と何の練習してんだよなぁーホント、うらやましいよなぁ」
「気になる?」
「そりゃー気になるだろ。お前は?」
別に、と流川は返すと、おもしろくなさそうに新しい花火を手に取って火をつけた。
せっかく今、二人きりなのに。自分は、三井のことで頭がいっぱいだったのに。
安西先生ファンクラブめ、こんにゃろう。
「ンだよ、拗ねんなよ」
三井は笑って、まるで猫の機嫌をとるようにわしゃわしゃと流川の髪を撫でる。
「意外とお前って、思ったことが顔に出るタイプなんだな」
「言われたことねー」
「素直なのはいいことだ」
三井はそう言って満足げに頷くと「……お前たちも、もう少しお互いに歩み寄れるといいんだけどな」と、軽く下を向きながら言葉を落とした。
「あゆみよる?」
「いや、こっちの話」
三井はなんでもないという風に頭を振り、近くにあったスパーク花火を2本取ってそのうち1本を流川に渡した。
火をつけると、パチパチという音とともに、炎がどんどん大きくなりながら四方八方に光の線を飛ばす。少し遠くに目をやると、向こう側では2年生たちが打ち上げ花火の準備をしていた。
「にしても宮城のヤツ、懲りずによくやるよなー」
その中に、何度あしらわれようともめげずに彩子の隣をキープする宮城を見つけ、三井がもはや感心したように呟く。
「流川は、好きなヤツとかいねぇの? あんだけファンがいんだから、よりどりみどりだろ」
「女は興味ないっす」
即答する流川に対し、三井はハハハ……と呆れたように笑った。
「お前って、マジでイケメンの無駄遣いだよな」
顔だけじゃなく、その才能まで2年間無駄にしてたアンタが言うか? と思ったが、ナチュラルにエグってくるのやめろ、とまた文句を言われそうなので口に出すのはやめた。それに、この先輩だって相当な男前なのではないかと、他人に興味がない流川ですら思う。ガラは悪いけれど。ついでに目つきと口も悪いけれど。
「先輩は? 誰か相手いないの?」
「俺にそんな暇があると思うかー? 毎日ついていくだけで必死だってのによ」
「バスケがイチバン?」
「そーいうこと」
その言葉が想像以上に嬉しくて、そしてそう言い切った三井のくしゃっとした笑顔があまりにも眩しくて、流川は思わず視線を落とした。
流川は普段、誰かの言葉で胸が温かくなったりしないし、表情豊かに向けてくる眼差しに、いちいち気持ちが揺れることもない。それなのに、三井の何気ない一言や仕草で、こんなにも気持ちが浮いたり沈んだりする。こんな感情、今まで知らなかった。
「超攻撃型花火50連いきまーす!」
宮城の威勢のいい掛け声とともに、角田が導火線に火を点ける。
買い出しの際、値段を見て思わず顔をしかめた下級生たちを尻目に、宮城が「次期主将の判断!」と強行突破したトッテオキの打ち上げ花火だ。
「超攻撃型花火? オメーみたいだな。オフェンスの鬼」
「一緒にしないで」
不服そうな流川を見てニヤリと三井が笑ったと同時に、部員たちの歓声が上がった。
息をつく間もなく、真っ暗闇の中、色とりどりの花火が次々に咲いていく。連続して発せられる軽快な音とスピード感。さすが、超攻撃型。普通の住宅地だったら、間違いなくクレームが来そうだ。
「たまには、こーいうのもいいもんだな。がんばった宮城に感謝だな」
「そうっすね」
言われてみれば、三井とこんなにも長い時間、二人で過ごすことなんて初めてかもしれない。そう考えると、やはり自分も次期主将には感謝するべきだ。たとえ彼のその原動力が「アヤちゃんと花火! 青春したい!」という、不純な動機だったとしても。
超攻撃型打ち上げ花火も終わりを告げ、周囲が再び暗闇を取り戻す。
「おい流川、次はこれやろーぜ」
そう言って三井が持ってきたのは、定番の線香花火。幸せなこの時間ももうすぐ終わる、そんな気がした。
ゆっくり火をつけると、花火の玉がぷくぷくと震えながら少しずつ大きくなる。今までの花火と比べると格段に頼りなく、しかし儚く美しいその光が下から二人をぼんやりと照らす。
「……線香花火ってさ、人の一生を表してんだって」
ガキの頃、ばーちゃんが言ってた、と三井が光の玉を見つめながら呟いた。
線香花火のはじまりは、人生のはじまり。火玉ができる蕾の状態から、徐々に熱い生命力がパチパチと燃えていく。はじまりを秘めた、牡丹の花。
「お前はこれから、どんな人と出会ってどんな人生を送るんだろうな」
やがてその音はどんどん大きくなり、松の葉のように枝分かれした大きな火花が散り、激しく勢いよく噴き出していく。素敵な縁に巡り合って、人生が充実するように。
「楽しみだな」
だんだんと音が小さくなり、火花が丸みを帯びて、散る方向が下向きになった。それはまるで柳の木のように、枝垂れて細く長くやわらかい。
そのまま二人がなんとなく無言でいると、散りゆく花びらのように小さな火花が静かに舞い、やがて静かに火玉が燃え尽きた。穏やかに終わりを告げる、散り菊。
「……なぁ、昨日の夜にロビーで言ってた、お前はまだ仙道に及ばないってやつ。あれ、お前は自分でなんだかわかってんのか?」
「いや、考えてはいるけどまだ全然……なんで?」
二人の火玉が消えたのを見届けると、ポツリと三井が切り出した。
「いや、あれからちょっと気になってさ」
珍しく、歯切れが悪い。――もしかして、と流川はピンときた。
さすが、安西先生ファンクラブ。さっきは、こんにゃろうとか思って悪かった。
「まさか、先輩はわかったの? カントクの宿題」
「うーん……多分これじゃねぇかなっていうのは、正直ある。けどよ……」
わかってる。その先は、言わなくても。
これは、安西から流川に課された課題だ。自分自身で答えを見つけ、解決しなければ意味がない。そしてそれは、三井も十分わかっている。
「安西先生はお前が自分で気づくのを期待して、宿題を出したわけだから。俺がどーこー言う問題じゃないと思うんだ。だけどよ……」
三井は流川の目をまっすぐ見つめた。二人の視線が、絡みつく。
「それに気づいたら、“日本一の高校生”っていうのも、夢なんかじゃないくらいお前はきっとすごい選手になる。それに、もっと強くなれる。お前だけじゃなくて、俺たちも」
「みんなも……?」
「エースっていうのは、そういうもんだ」
破顔一笑。
「俺たちは強い、だろ?」
コクリ、と流川は頷く。――俺たちは、強い。
さすが、元中学MVP。当時は、エースでキャプテンでオールラウンダーだったと木暮から聞いたことがある。この人もきっと、様々なものを背負ってここまできたのだろう。
「ねぇ、先輩」
流川はおもむろに余っていた線香花火を手に取ると、その中の1本を三井に押し付けた。
「勝負しよ。負けた方が勝った方の言うことなんでも聞く」
「線香花火で? ガキみたいだな」
自分だってまだまだガキじゃねーか、と思う。たった2年しか違わないのに。たった2年。この人がバスケから離れていたのも2年。その間に一体何があったのかは知らない。だけど、間違いなく今この瞬間、この人は自分のそばにいる。
18のこの人と比べたら、15の自分はもっとずっとガキなのかもしれない。
それでも。それでもいいから。
「ね、先輩。お願いします」
「いいぜ、何? お前が勝ったら、俺に何してほしいの?」
珍しく必死にねだる流川を見て、三井は優しく笑った。
――先輩に、触れたい。先輩と、キスしたい。
三井の笑顔を見て、思わず喉まで出かかった言葉をぐっと飲み込んだ。ジキショーソーなのは、さすがの流川でもわかる。それ以外で、三井としたいこと? そんなの、決まってるじゃないか。
「ワンオン……お願いします」
「はぁ!? まじかよ!? いつもしてんじゃねーか。それにお前、ここで負けたってどーせまたあとでお願いしますって来るだろ」
呆れたような三井の返事を聞いて、なるほどその通りだと思ったので少しだけ条件を追加することにした。
「じゃあ……いつもは5本なんで、10本勝負でお願いします」
「まぁいいけど……それじゃあ、俺はなぁ〜」
そう言って考えるそぶりを見せた三井は、しばらくしてから「よし、決めた!」とニカッと笑い、流川に隣に座るよう促した。
そして、二人同時に火をつける。
――恋が始まった、合図がした。
目の前には、流川の色んな想いをこれでもかと含んで大きくなっていくような、まるい光。
*
「いやぁ〜快適。合宿帰り、歩いて帰るのダリぃからな。まじで助かるわ」
翌日の午後。
安西に合宿終了の報告をしに湘北へ寄った帰り、流川はいつかのあの日のように三井を自転車の後ろに乗せてペダルを漕いでいた。ただ、あの時とは違って大荷物が二人分あるので、だいぶ重い。
それでも、負けは負けだ。仕方ない。
正確に言うと、火玉が落ちたのはほぼ同時だった。しかし、それをこの負けず嫌いの先輩が、はいそうですかと簡単に認めるわけもなく「俺の方が少しだけ長かった」と言い張るので、結局最後は流川が折れた。
折れた、というのも正しくないかもしれない。三井のお願いを聞いた時から、自分が負けてもいいなと心のどこかで思っていた。「俺が勝ったら、明日自転車で駅まで送れ」だなんて。
「あっという間だったな〜」
そんなこととはつゆ知らず、三井は後ろで足をぶらぶらさせながら、流川に話しかける。
「なんか、この合宿でお前とめっちゃ喋ったよな」
「いろいろ話聞けてよかったっす」
「俺もだよ。お前もいろいろ考えてんだな」
部内でのコミュニケーションは大切だ、と満足げに三井は頷く。
「楽しみだな、インターハイ」
「うす」
「……がんばれよ、日本一の高校生」
この人と一緒にバスケができるのも、残り数ヶ月。そして、来年の春には卒業してしまう。
1試合でも長く、同じコートに立っていたい。1本でも多く、この人の美しいスリーポイントを見ていたい。そのためにはやはり、勝ち続けるしかないのだ。もう誰にも、負けたくない。
この愛しい日々が、少しでも長く続くように。
「じゃあな、流川。サンキュな。今日はゆっくり休めよ」
「っす。先輩も」
いつものようにわしゃわしゃと流川の髪を撫で、三井は改札に定期を通す。
1度だけ流川の方を振り向くと、まだそこに自分がいたことに驚いたようで、少し目を見開いたあとすぐに笑顔になり「またな」と口パクで言ってから、ひらひらと右手を振って人混みの中に消えていった。
三井に触れられたところが、いつまでも熱い。
自分にこんな感情があったなんて、知らなかった。
そして、インターハイが終わったらこの気持ちを先輩に伝えたい、と思った。
「素直なのはいいことだ」と三井も言っていたじゃないか。
それとも、あの人はまた「イケメンの無駄遣い」と言って、笑うだろうか。
それでもいい。あの人には、いつもどんなときも笑っていてほしい。
まだまだ、この夏は終わらない。
流川は真っ青に澄み渡る夏空を見上げ、大きくひとつ息をつくと、思い切り自転車のペダルを漕ぎだした。
――映画じゃない、僕らの青だ。
――映画じゃない、僕らの夏だ。