深夜のアパートの一室。背中に感じる、ひやりと冷たく硬い床。
ゆらりと視線を動かせば、自分の顔の両側に置かれた腕が目に入る。ほのかに香る酒と、目の前で自分を押し倒している男自身に染み込んだセブンスターの匂い。もはや隠そうともしない獰猛さに、ぞくぞくとした感触が背筋を走った。五感を揺さぶる情報の全てが、自身に一切の逃げ道が残されていないことをさまざまと見せつけてくるようで、三井の脳内にはここまでに至る経緯が、走馬灯のごとく流れていた。
*
「あっつー」
夏真っ盛り、はとうに過ぎたというのにまだまだ暑さが残る8月の終わり、職場からの帰り道。じりじりと焼きつく午後の日差しをその身に浴びながら、三井は後悔していた。休日出勤なんてするんじゃなかった。朝の涼しさに騙されたような気分になり、三井は眉を寄せながら口を曲げる。
やっとの思いで帰宅し、クーラーをつけながら冷蔵庫のドアを開けた。迷いなく喉に流し込んだ冷水が、渇いた体内をまっすぐ駆け下りて、一気に胃まで伝っていく。その感覚がこの上なく気持ちよくて、ゆっくり瞼を閉じた。“生き返った”と、思う。社会に出ると、良くも悪くも同じような日々の繰り返しだ。起きて、会社へ行って、帰ってきて、寝る。それが幸せかどうかなんてわからないし、そもそも考えたことすらない。そんな劣等や葛藤を、きっと誰しもが抱えて生きている。
ようやく整った呼吸をふぅ、とひとつ吐き出してソファに向かおうとしたその時、ポケットに入れていた携帯が震えた。画面を確認するとそこにはよく知った男の名前が表示されており、自然と顔がほころぶ。
『もしもしミッチー? 今ちょっといいか?』
「あぁ、どうした? なんかあったか?」
電話の主は、高校時代の後輩ーー桜木花道だった。高校卒業後、そのままプロの道へ進んだ彼は、今の時期がちょうどオフシーズンである。水戸と久しぶりに買い物に来ていて、このあと二人で呑むから三井も来ないかという。外を歩きながら電話しているのだろう。人混みのざわつきや車の通りすぎる音が混じっている。
特段この後に予定はなかったし、なんせ彼らに会うのも久々だ。断る理由は何もない。三井が「いいぜ」とその場で即答すると、『ミッチー来れるって』と一旦桜木の声が遠のく。おそらく隣にいる男に報告しているのだろう。二言三言やりとりがあった後、桜木の声が再び三井の名前を呼んだ。
『洋平がいい店知ってるらしいから、予約できたら場所送るけど、店集合で大丈夫か?』
「りょーかい」
『じゃあ、また後で』
程なくして、店の場所と時間を知らせるメッセージが届いた。部屋の時計をちらりと見てから逆算し、出かけるまでの算段をつける。
三井はぐっと伸びをしてから脱力とともに「よし」とつぶやき、出かけるならとシャワーを浴びるために浴室へ向かった。
指定された場所は、居酒屋の中でも小洒落た佇まいの店だった。モノトーンで統一された内装と落ち着いた照明、そして通路の両側に半個室の席が並んでいる。各席には鍵がかかっているため、通っただけでは中の客の顔は見えにくい。料理と酒をじっくり楽しむ大人の居酒屋といった雰囲気だ。
三井は店内をぐるりと見渡し、案内された席に腰を下ろす。
「へぇ、この辺にこんな洒落た店があったなんて知らなかったな」
「洋平が言うには、最近できた店らしい。洋平はええかっこしいだからな」
「ええかっこしい?」
その言葉の意味を尋ねようとしたところで、水戸がひょっこりと後ろから顔を覗かせた。
「ミッチー、マジで気にしなくていいから」
普段と何ら変わらないようにも見えるが、その目は笑っているようで多分笑っていない。三井は訝しげな顔を浮かべて二人を見たが、当の桜木はけろっとした様子で受け流し、「何飲むか?」とメニューを開いた。
さすが水戸セレクトの店というべきか、出てくる料理も酒も全てがうまかった。本当にソツがない男だ、と思う。高校のときからそのイメージはずっと変わらない。
「酔っ払いの介抱をしなきゃだから」と言って、それまで酒を口にしなかった水戸がグラスを持ったのは、二度目の乾杯をしてからしばらく経った頃だった。「桜木もいい大人なんだし、お前も気にせずに飲めよ」と三井が勧めたのがきっかけだったが、本音を言えば、酔った水戸を見てみたいという好奇心も少なからずあった。
「それじゃあお言葉に甘えて」とグラスを持った水戸の横顔を、自分も酒を飲むふりをしながらそっと盗み見た。水戸は何杯飲んでもなんや顔色やテンションが変わるわけでもなく、ただただ淡々と飲み進める。その姿はまるで水でも飲んでいるかのようで、まぁコイツは自分と違って筋金入りのヤンキーだったからな、なんて一人で勝手に納得する。
三井は、途中でトイレに立つ桜木の姿を見送りながら、感心した様子で息をついた。
「……お前、すげー酒強いんだな」
予想通りというか、なんというか。
「ミッチーは、やっぱり弱いんだね」
やっぱりってなんだよーーー言いかけたところで、三井は思わずその言葉を飲み込んだ。だって、目の前の水戸は、あまりにも。
「三井さんは、酔うと顔が赤くなるタイプなの?」
可愛いね、そう言いながら水戸は優しくその頬に触れた。
ミッチー、三井さん、ミッチー、三井さん。
自分を呼ぶ水戸の声が、幾度となく頭の中で反芻する。片頬を包み込まれる感触に、思わず固まった。けらけらと屈託なく笑う水戸の声は、まるで子どものように幼くて。ああ、こいつもこんな風に笑うんだなーーそんなことをどこか他人事のように考えている自分がいた。拒否しない三井をいいことに、水戸は「ほっぺた柔らかいんだね」とそのまま頰をつまむ。向けられたその視線は柔らかくて、温かい。まるで大切で仕方ない宝物を眺めているみたいに。
こんな水戸、今まで見たことがない。
三井が水戸のことを考えるとき、真っ先に思い出すのはやはりあの日、体育館で自分に向けられた氷のように冷たい目線だった。きっと心の中は怒りで燃えていたはずなのに、射抜くかのようなその視線は冷たくて冷たくて冷たくて、まるで氷の刃物で刺されたかのように痛い。でもそれは、彼の親友の大切なものを丸ごとぶっ壊そうとした、三井自身への当然の報いだと思った。あまりに身勝手で、独りよがりの子供じみた理由で。それなのに、今はなぜか、その黒い瞳に飲み込まれてしまいそうになる。
否応無しに上がっていく心拍数に、三井は動くことができない。
「ねぇ、三井さん、あのさーーー」
何も言えないでいる三井をよそに、水戸がそう口を開いた、次の瞬間。
「ーーようへーっっ! オレは次も生でよろしくーー!!」
そう叫んだのは、ちょうどトイレから戻ってくる途中の桜木だった。デカい図体に真っ赤な髪の毛のその男は、遠くにいたって否が応でも目立つ。
三井の頰に添えられていた水戸の手は桜木の大声で弾かれたように離れていき、「花道」という低くて柔らかな声が耳元をかすめた。それを一瞬でも寂しいと思ってしまった自分はきっとどうかしている。
意識を無理やり現実に引き戻すように、三井は勢いよく席を立った。
「……お、俺も便所! 行ってくる!」
「お、いってら〜」
何も知らない桜木にすれ違いざまそう声をかけられると、逃げるようにトイレへ向かった。なんとか気持ちを落ち着かせようと入った個室で、ふぅ、とひとつ深呼吸をする。ようやくきちんと呼吸ができた気がした。水戸の溶けるようなまなざしと、温かな掌の感触と体温がまだ体に残っている。
触れられた頰がまだ熱いのは、酒のせいだけなのか。いや、そうに決まっている。アルコールでうまく回らない頭に広がる邪な感情を振り払うように頭を振ってから、三井はもう一度大きく息を吸った。
< to be continued…>