そろそろ一緒に暮らさないか、と言ったのは牧の方からだった。
それこそそれは「今日の夕飯何する?」とか「帰りにアイス買って帰る?」といった類の、まるでなんてことないような、自然な言い方だった。だからこそ、諸星も当たり前のように「そうだな」なんて返したのかもしれない。
そんな諸星でも、なんの脈略もなく「鎌倉にマンションを買ったから、いつでも引っ越してくるといい」と鍵を手渡された時はさすがに面食らった。
「は? マンションを買った? 借りたんじゃなくて?」
にわかには信じがたく一応そう聞いてはみたものの、牧は逆に驚いたような顔をして答えた。
「お前と暮らすんだから、当然だろう。ただ、オーシャンビューというのだけはどうしても譲れなくてな。海からも近いし、これからは好きなだけサーフィンに行けるぞ」
そう言って朗らかに笑う牧を見ると、高校生の頃の自分たちを思い出す。
名古屋育ちの諸星にとって、海はもちろんサーフィンなんてとても身近な存在ではなかった。その楽しさを教えてくれたのは、牧だ。ジュニア合宿で知り合い付き合うようになってから、互いの忙しい合間を縫って愛知と神奈川の距離を移動しあった。時には相手の試合観戦さえも。
諸星が神奈川へ出向くと、牧は必ずサーフィンに誘った。諸星にサーフ経験はなかったが、元々の運動神経の良さとセンスの良さも相まって、その楽しさに気づくのに時間はかからなかった。二人で波に乗り、疲れたら海を見ながらコーヒーブレイクをして、夜は牧の家に泊まり気のすむまで抱き合った。互いの距離と会えない時間を埋めるように、何度も何度も。今考えたらとても信じられないスケジュールだが、気力も体力も有り余っていた高校生の二人にとって、そんなものは取るに足らないことだった。
「それに一緒に暮らすってことは、これからずっと一緒にいるってことだろう? それこそ、どちらかが死ぬまで」
その言葉にハッとして、目の前にいる牧を見つめる。記憶の中にある高校生の頃よりもさらに精悍な顔つきになった、誰が見ても間違いなくいい男。牧は変わらない。高校生の頃からずっと、諸星だけを見て愛し続けている。まるで当たり前のように「死ぬまで一緒だろう?」だなんて。
「そうだな」
だから、諸星も同じように返した。当然だろう? とでもいうように。
「お前の買ったマンションって、もう中に入れるのか?」
「ああ、少しずつ荷物を運んでいるところだ。とりあえず、ベッドとか冷蔵庫とか必要最低限のものだけ先に」
「行ってみたいな。今日はそこに泊まってもいいか?」
「構わないが……お前、明日は仕事だって言ってなかったか?」
「気が変わった」
ニヤリとそう言って笑う諸星を見て、牧の目は明らかに欲を滲ませる色に変化した。同時に諸星の心も満たされる。あぁ、やっぱり牧はいい男だ。
*
牧の手にひかれてたどり着いたマンションの前に立つと、その豪勢な佇まいに諸星は思わず口をぽかんと開けた。
高級感溢れる広いエントランスのオートロックを解錠し、そのまま中に入るとフロントには「おかえりなさいませ」と落ち着いた笑顔のコンシェルジュ。マンション内には、24時間利用可能な住人専用のフィットネスジムまであるらしい。「いつでも気兼ねなく身体が鍛えられるぞ」と牧は自慢げだが、これはいわゆる“超高級低層マンション”というやつなのではないだろうか。
「なぁ牧? ここ、どう考えてもオレの給料に見合ってないような気がするんだけど、その、ローンとか……本当に大丈夫なのか?」
エレベーターを待ちながら諸星が遠慮がちにそう聞くと、牧はこともなげに答えた。
「何言ってんだ。キャッシュで一括払いにしたから、ローンなんて残ってないぞ。お前はそんなこと心配しないで、普通に引っ越してきてくれればいいんだ」
「いや、でも……」
それでもなお引き下がらない諸星に、今度はうるさいとばかりに強引に口付けて黙らせる。
「ん……ぁ、こんなとこで……おい、牧ってば……ぁっ」
そんな抗議の声は、再び落とされたキスであっけなく消された。
思考回路もどぷりと飲み込まれていくように、何度も角度を変えながらどんどんキスが深くなっていく。蕩けたような表情になった諸星を見て、牧は満足げにその濡れた唇を指でなぞった。
「オレはもう限界だ、諸星」
そのまま二人とも無言でやってきたエレベーターに乗り込み、玄関の鍵を開けるともつれるようにして寝室のベッドになだれ込む。
「んあっ……まきっ……」
「……あんまり煽るな」
くちゅ……という欲を誘う水音。声にならない喘ぎ声。興奮した息遣い。
今さら「愛してる」なんてわざわざ言ったりしないけれど、繋がった部分から互いの気持ちがわかるくらいの時間は一緒に過ごしてきた。
「あ……あぁっ」
「諸星……悪い、もう……」
「うん……オレも……っあ、あっ……」
諸星の返事を聞くや否や、牧の動きが一気に加速する。
涙と欲で濡れた諸星の瞳に、牧の顔が映った。試合中に何度も見た、狙った相手は絶対に逃がさないというまるで捕食者のような、あの顔。
「ーーっ」
びくん……と一瞬諸星の身体がこわばると、その瞬間自身をきつく締められた牧も堪らずに果てた。
こんな牧の表情を知っているのは、自分だけでいい。
諸星は両手で優しく牧の顔を包み込み、そっとおでこに口付けると「好きだ」と小さく呟いた。
「なんだ……? 珍しいな、お前がそんなこと」
「うーん……なんか急に言いたくなった」
照れたように笑う諸星を見て、牧の瞳に再び妖しい灯りがともった。
いつの間にか諸星の中の牧は固さを取り戻していて、ゆっくりと腰を動かす。
「なっ……お前、まさかっ……ん」
「いいだろう? 久しぶりなんだ。これくらい許せ」
有無を言わさぬ牧の口調に、「ばーか」という諸星の言葉は甘く溶け、そのままベッドの中に沈んでいった。
*
カーテンの隙間から朝日が覗き、その光で目を覚ました。どうやら、いつの間にか眠ってしまったらしい。シーツやそのほかの残骸たちもすっかり片付けられており、おそらくそれを一人で片付けたのであろう、抜け目のない男は隣でスヤスヤと寝息を立ててぐっすりと眠っていた。
ーーだんだん外見が年齢に追いついてきたか?
学生の頃から本来の年齢よりもだいぶ年上に見られ、「帝王」「双璧」など大層な二つ名で呼ばれていたこの男。初めて会話をした時は、そんな仰々しいイメージとは全然異なっていてーーもちろんいい意味でーー驚いた記憶がある。それが今ではこうやって二人で過ごして身体を繋げるような仲になったのだから、やはりこれも縁なのかもしれないと思う。
牧を起こさないように、そっとリビングに移動する。
昨日は玄関に入ってすぐ寝室に直行したので、家の中をゆっくり見るのはこれが初めてだ。想像以上の広さに若干慄きながら、カーテンを開けた。
オーシャンビューというのだけはどうしても譲れなくてな、という牧の言葉通り窓からは湘南の海が一望できる。ベランダに出てみると、かすかに潮の香りがする海風が優しく諸星の髪を撫でた。ここで牧と二人で晩酌でもしたらきっと楽しいだろうな、とそんな想像が頭をよぎる。
その時ふと、高校生の時サーフィンの休憩中に牧と飲んだコーヒーの味を思い出した。
あの時のコーヒーは、ひどく美味かった記憶がある。身体が疲れていたからなのか、牧と二人で飲んだからなのか、それともコーヒーそのものが美味かったのかはわからない。
キッチンに戻り、戸棚を開けてみるとコーヒー豆やハンドドリップに必要な道具が一通り揃っていた。さすがは牧だ、抜かりない。
豆を挽いて、しっかり蒸らし、お湯を小さな“の”の字を描くように三回に分けて優しく注ぐ。自分のために、一つ一つの動作を丁寧にコーヒーを淹れる贅沢な時間。キッチン中にコーヒーの香りが広がり、諸星は思わす息を大きく吸い込んだ。
お金のことや引越しのこと、そのほかにも考えなくてはいけないことは山ほどあるが、とりあえず今はただこのぬるい幸せに浸っていたい。
牧が起きてきたら、同じように淹れたてのコーヒーを出してやろう。そして会社には今日は休む連絡を。今のところ急ぎの案件はないし、有給もまだまだ有り余ってるので問題ないだろう。
諸星はモーニングコーヒーを片手に窓から見える海を眺めながら、こんな風にこれからもずっと穏やかに牧との生活が続いていったら幸せだな、と思った。
▶︎ to be continued…