終わった恋にひとつだけ望むことができるのならば
ーー君に、幸あれ。
*
夏の夜とキンキンに冷えたビールは、最高の組み合わせだ。
「悪りィ……待たせたか? 木暮」
「いや、全然。そっちこそ部活終わりで疲れてるのにありがとう」
「久しぶりだな。元気にしてたか?」
とりあえず生ひとつ、と店員に頼んでから三井は木暮の隣のカウンター席に座った。
木暮とサシで飲む時は、いつもこの店と決めている。二人の家のちょうど中間地点で、こじんまりとした造りなので団体客もいない。何より、リーズナブルなのに酒も料理もうまいのがいい。
気の合う友人とうまい酒は、最高の組み合わせだ。そんなことを考えながら、三井はメニューの串焼きに目を通す。
「今日、奥さんは? そろそろガキが生まれる頃だっけか?」
「先週から産休に入ってさ。一人の時間を満喫したいから、今日は三井くんとゆっくりして来てって追い出されたよ」
高校時代と全く変わらない優しい笑顔で、ハハハと木暮は笑う。
木暮は2年前、新卒の頃から付き合っていた職場の同僚と結婚した。三井も、木暮の奥さんとは結婚前から3人で何回か飲んだことがあり、もちろん式にも参列したのでよく知る間柄だ。
「三井は? 今年のバスケ部はどうなんだよ? 全国行けそうなのか?」
三井は大学卒業後、神奈川の県立高校で体育科の教員として勤めている。念願だったバスケ部の顧問を受け持ち、今の学校で2校目だ。
「IH予選はベスト8だったよ。やっぱりあの4強を崩すのは、なかなか難しいわな」
「今年の代表は、海南と湘北だっけ?」
「そうそう。俺らの代と同じ。翔陽と陵南も相変わらずカタイし、まぁあとはぶっちゃけ相性もあるよな」
ちょうど三井のビールが来たところで「カンパイ」とジョッキを合わせ、カチンと涼しい音が鳴る。液体8割に泡2割の最高のバランス。部活終わりの疲れた身体にはたまらない1杯だ。むしろ、これのために働いているといっても過言ではないかもしれない。
「今の学校でなんとか結果出してさ、次の異動で湘北狙ってんだよなー」
「お、さすが安西先生ファンクラブ」
「うるせぇ」
“安西先生ファンクラブ”と最初に三井を揶揄したのは、たしか宮城だったか。散々殴り合って互いを病院送りにした挙句、最終的にはなんやかんやでウマが合った小柄なポイントガードを思い出す。
「宮城もそろそろ彩子とゴールインするのかな?」
「なんかもう、こればっかはあいつの執念の勝利だよなぁ……」
呆れたように三井が笑い、お通しのトマトサラダをつまみながら木暮が「懐かしいな」と呟いた。生姜と鰹節が効いていて、ビールにもよく合う。
「やっぱり、毎年この時期になると思い出すんだ。高3のあの夏をさ。フィルターもかかってるんだろうけど、自分の人生の中で一番輝いてたよなぁって」
「わかる。間違いねぇな」
今でも忘れない、忘れられない、忘れるわけもない、あの夏。
間違いなく、人生で一番暑くて熱かった、あの夏。
「なぁ……」と、木暮が少し遠慮がちな目線を三井に向ける。
「流川とは、結局あいつが卒業後に渡米してから連絡取ってないのか?」
「あぁ……そうだな。1回も会ってないし、連絡も取ってねぇなぁ」
三井は痛そうな表情で下の方に目線をやると、静かに目を閉じた。
部活漬けだった毎日、部活終わりの1ON1。
初めて二人乗りをして帰った日の、ひまわりの黄色と風鈴の音色。
合宿の夜の線香花火。
目が潰れてもなお崩れない、全身バネのようなジャンプシュート。
何度打ちのめされようと果敢に勝負を挑む、湘北のエース。
激闘を制し、抱き合って喜んだ広島。
互いの想いを確かめ合った、夏休み最終日。
誰もいない体育館で交わした、ただ触れるだけのままごとみたいな幼い口付け。
毎日を生きることに忙しくて、当時を思い出す時間は間違いなく減った。それでも。
「そっか……流川、向こうでがんばってるみたいだな」
「あぁ、今年こそ優勝狙えるんじゃないかって、ニュースでやってたし」
昨シーズン、流川の所属するチームはNBAプレイオフ、そしてファイナルへと駒を進めた。優勝こそ逃したものの、日本でもそのニュースはかなり大きく取り上げられ、TVやネットニュース、バスケ雑誌あるいはCMで流川の名前やその姿を見る頻度は格段に上がった。今ではあの容姿の良さも相まり、一部のバスケファンだけでなく一般の女性ファンまで大勢獲得しているという。加えて世界各国に非公式の“Ardent fans of Rukawa”ーーいわゆる“流川親衛隊”があるというのだから、さすがというかなんというか。
しかし、それらの偶発的なニュースが目に入る以外、自分から流川の試合中継を観たり記事に目を通したりしたことはない。未練になると思ったからだが、そうやって意識的に避けていること自体、未練がましいのかもしれない。
「すげぇよなぁ、あいつ。優勝どころかファイナルMVPも夢じゃないだろ。やっぱ流川は日本の宝だよ」
「それ、本人に言ってやったらすごく喜ぶと思うけど」
「そうか?」
当然だろ、というように木暮が頷く。
「昔からそうだったじゃないか。流川は三井に褒められるとすごく嬉しそうだった。普段は無表情でわかりにくいのに、それだけは俺にもわかったよ」
「そっか……全然気づかなかった」
三井は相手の気持ちはよくわかるのに、自分のことになると全然だな。と木暮が笑う。
「なぁ……やっぱり流川に会いに行かないのか? 今年の夏休みは無理でもさ、それこそ冬休みなら試合も観られるだろ」
「今さら、どのツラ下げて会いに行けばいいんだよ。あれからもう9年だぜ?」
ーーもう、9年。
自分で言って驚いた。あの、桜の別れから9年。
流川と一緒に過ごした2年半よりも、別れてからの時間の方が圧倒的に長くなってしまった。
「俺は、お前ら二人が一緒にいるのを見るの、好きだったよ」
「サンキュ……でもよ、あいつとはもうとっくに終わったんだ。自分の生徒たちを見てても思うけどさ、あんなのは学生時代の淡い青春だよ。あいつにはあいつの人生があるし、俺には俺の人生がある。後悔はしてない。それにあんだけ活躍してんだ、あいつだってとっくにブロンズヘアのイケてるネーチャンとヨロシクやってるだろ」
一気にそう言って、ハハハ、と乾いた笑いと共にグッと力を込めジョッキを握る。
「終わったんだ」
三井は自分に言い聞かせるように、もう一度そう呟くと、残りのビールをぐいっと一気に飲み干した。
*
「……うっわ、懐かしいな」
木暮と会って、久しぶりに流川の話をしたからか。
無性に当時が懐かしくなり、三井はクローゼットの奥にずっとしまってあった段ボールを引っ張り出した。二人で過ごした日々に少しでも早く蓋をしてしまいたくて、流川がアメリカに渡ってからすぐ、思い出は全てこの箱の中に閉じ込めた。しかし、だからといってなんとなく捨てる気にはなれず、引越しのたびにクローゼットの奥深くに追いやるのを繰り返す。
これを開く気になったんだから、自分もやっと吹っ切れたのだろうかーーほんの少しの感慨とともに、段ボールの蓋を開けた。
大量の写真、卒業アルバム、ボタンのない学ラン。赤と黒のジャージ、後輩たちからの寄せ書き。ペアのマグカップとシルバーリング。
「流川……」
三井の口から、自然と名前が零れ落ちる。
泣かないと決めていたのに、結局先生の前で泣き崩れてしまった引退の冬。
凍えるような寒さの鶴岡八幡宮、握った手の温もりと誕生日。
江ノ電の窓から覗いた、七里ヶ浜の夕焼けと光の道。
まだ蕾の桜の下で、卒業おめでとうございます、と言ったあいつの不機嫌そうな横顔。
初めて二人で肌を重ねた翌朝のトーストとドリップコーヒー。
赤と黄色に染まった公園で「お前の季節だな」なんて言って笑った、紅葉の秋。
東京と神奈川の距離を少しでも埋めたくて、携帯を握りしめながら寝落ちした深夜2時。
「日本一の高校生」を達成したあいつを、ぼんやりと観客席から眺めていた自分。
二人の関係を終わらせる覚悟を決めた、春の夜。
絶対に泣くと思ったのに、涙さえ出なかった空港での別れ。
あの頃の記憶が一気に蘇り、三井はふぅ……と大きくひとつ息をはいた。
簡単なあらすじになんかに、まとまってたまるか。
途中から読んでも、意味不明な二人の話。
ありがちで退屈などこにでもあるような続きが、開いたら落ちてひらひらと風に舞う。
最後に見た、出発ゲートをくぐる流川の後ろ姿。
あの日の背中は今もなお三井の瞼の裏に残ったまま、消えてはくれない。
▶︎to be continued…【Ⅱ】