巡る季節③ 素敵じゃないか

 1ミリもめでたいなんて思っていないのが誰が見ても丸わかりな、不機嫌モード全開で「卒業おめでとうございます」と言った流川の顔を三井はきっと忘れないと思う。

「お前さぁ、もう少しマシなツラできねぇのかよ? 卒業式だぜ? めでたいんだぜ?」
「オレにとっては全然めでたくなんかない。先輩、留年すればよかったのに。で、オレ達と一緒に卒業すればいい」
 おいおい、オレを二年も留年させる気かよ――と呆れたように笑う三井に向かって、流川はその憮然とした表情を崩さない。よくて浪人、下手したら留年という大方の予想を覆し、三井は見事スポーツ推薦で大学進学を決めた。そればかりでなく、夏のIH山王戦に加えて秋の国体と冬の選抜予選の活躍――しかもムダにドラマチックな――が複数のスカウトマンの心に刺さり、何校か選べる程度にはオファーが来たというのだから、やはりこの先輩は色々と“もっている”のかもしれない。それでも。たとえ、そうだとしても。
「よりによってなんで東京? 神奈川の大学にしとけばよかったのに」
「まぁな、オレにも色々あんだよ」
 三井は「色々って何すか?」と相変わらず不機嫌そうに尋ねた流川の頭を、卒業証書の入った筒で楽しげにポンポンと叩く。
「引っ越しが落ち着いた頃に連絡するから、オフの日にでも遊びに来いよ。もてなすぜ?」
「……それって、オレ一人で行っていいの? どあほうとかミヤギ先輩は呼ばない?」
「トーゼン」
 その言葉を聞いて、ようやく流川の溜飲が下がった。しかし、こんな言葉一つで機嫌が治まるのだから、つくづく自分は三井に弱い。
 絶対、自分の方が三井のことが好きだと思う。
 気持ちの強さなんて比較するものではないのかもしれないが、それがなんだか妙に悔しくて、少しだけごねた。
「なるべく早く、お願いします。なんなら、引っ越しの片付けとか手伝います」
「なんだ、お前にしちゃ気が利くじゃねーか」
 きっとこの先輩は制服を脱いだ途端、待ちかまえていたかのように大人になってしまうのだ。部活中、桜木や宮城たちとバカみたいにふざけていたことなどまるで全部嘘だったかのように。“大学生”と“高校生”。そんな肩書きはただの記号だと強がってみても、その違いはやはり大きい。今日ほどこの二歳の年の差を憎いと思ったことはないだろう。こればかりはどうしようもないというのに。
「先輩、オレ、浮気とかぜってー許さないんで」
「なんだよお前、意外と重いタイプ?」
 そう言ってケラケラ笑う三井は、やっぱりまだ年相応で。こういったギャップも三井の魅力ではあるのだが、この先自分の知らないところでその魅力を振りまいていくのだと思うと流川としては面白くない。非常に面白くないのである。
「先輩、卒業おめでとうございます」
 大学生になれば、三井の世界は今までとは比べ物にならないくらい新しく広がっていくのだろう。そしてその新しい世界はきっと、三井のことを放ってはおかない。蕾が花開くように、大人になっていく彼を。
「あぁ、サンキュな」
 春は嫌いだ。せっかく想いが通じ合って一緒にいられるようになったというのに、こうもあっさりとこの人を自分の前から連れ去ってしまう。

 流川はそんな気持ちを持て余しながら、まだ咲く気配のない校庭のソメイヨシノの蕾を恨みがましく見上げた。

 そろそろ遊びにくるか、と三井からお誘いの電話があったのは、花見のシーズンも落ち着く4月も中旬を過ぎた頃だった。
 二人の部活のオフが重なった日曜午後の3時過ぎ、駅前のロータリーまで迎えに来てくれるという約束をしたので、通行人の邪魔にならないよう端の方で三井を待つ。
 ここが三井の住む街――と考えると、どうも落ち着かない。
 そこは地元から電車で1時間ほど揺られたところにある、流川の初めて降りる駅だった。東京の西側に位置しており、藤沢に比べればこじんまりとはしているものの、駅の中にはそこそこ店も入っているので、利便性はまあまあ高そうだ。ひとついけば隣は急行も停まる駅ビル付きのターミナル駅なので、買い物などにも困らないだろう。
 ふと顔を上げると、街路樹の葉桜が目に入った。
 卒業式の日はまだ蕾だったのに――と、あの日のことを思い出す。三井が卒業してから、1ヶ月と少し。出会って以来、こんなにも会えなかったのは初めてだった。電話やメールで連絡を取ってはいるものの、やはり直接触れられないのはなかなか辛い。
 先輩、早く来ないかな。
 なんとなくそわそわしながら待っていると、向こうの方から自転車に乗った三井が手を振りながらこちらへやってくるのが見えた。
「流川ーー! ごめんな。待たせたか?」
「いや、大丈夫」
 久しぶりでどんな顔をしたらいいのかわからずに相変わらずの仏頂面になってしまう流川を気にすることもなく、三井は楽しそうに後ろの荷台をポンポンと叩いた。
「ホラ、乗れよ」
「え?」
「今日はお前のこと、もてなす約束だっただろ? オレの後ろに乗れるなんて滅多にないんだから、感謝しろよ」
 自信満々にそう言われたので、流川はおずおずと荷台に腰を下ろした。
「よし、しっかり掴まってろ」
 ゆっくりと、周りの景色が動きだす。そのまま腕を腰に回した時に感じた三井の温かさは久しぶりで、流れていく景色がなんだかとても新鮮だった。
 
 途中にあるスーパーで買い物を済ませてから部屋へ向かった。
「おジャマします」
 普段は物怖じしない流川だが、少し遠慮がちに部屋へ上がった。緊張しているのか、キョロキョロとあちこち見回している。
「なんか……ちゃんとしてる」
「今日はちゃんと掃除したからな。いつもはもう少し雑」
 駅から5分ほど自転車を走らせたところにある、1Kのマンションが三井の城だった。
「ここ、築年数はそこそこいってるんだけど、リフォームかかってるから中は結構キレイだろ。その分、家賃も安いんだよ」
 言いつつ、三井は流川にコーヒーを差し出した。
「どうも」
「ドリップだけど。お前、コーヒー飲めたっけ?」
「大丈夫」
 すると、それを見た流川があることに気がついた。
「先輩、コレ……オソロイ?」
「お、気づいたか」
 嬉しそうに三井は笑って答える。
「マグカップ。ペアのやつ、お前が来るからと思って買っといたんだよ。それ、流川専用な」
「っす」
 改めて、三井から渡されたマグカップを眺めた。なんてことのないシンプルなデザインだが、会えなかった間も自分のことを考えてくれていたのかと思うと、それだけで心が温かくなる。
「ミルクと砂糖は?」
「なくていい」
 ブラックコーヒーを飲める人がやけに大人に見える気がするのはなぜだろう。
 マグカップを両手で持ちながら、猫舌の流川は少しだけ苦く感じるコーヒーにフーフーと息を吹きかけた。

 二人とも次の日があるので、早めの夕飯はホットプレートで鉄板焼きにしようと提案された。狭いキッチンで野菜を切る三井の肩に後ろから顔を乗せて、流川が尋ねる。
「先輩、いつもゴハンとかどうしてるの?」
「んー、肉焼いたり野菜炒めたり? あとは、コンビニの弁当とかさっきのスーパーで惣菜買ったり。キッチンもこんな感じだから、がっつり料理すんのも難しいんだよな」
 たしかにそこにあるのは、廊下に無理やり詰め込んだような単身者用マンション特有の小さなシンクと、一つしかないIHコンロ。ここで手の込んだ料理を作るのはなかなか骨が折れそうだ。しかも、慣れない一人暮らしに部活や大学の授業が加われば、体力的にもきついものがあるかもしれない。
「お前も高校卒業後に家を出るつもりなら、今のうちにおかーさんから色々教えてもらっておいた方がいいぞ? しかもお前の場合、アメリカかもしれないわけだし」
 なるほどその通りだと思ったので、流川は素直に頷いた。パンを焼く、湯を沸かすのスキルだけでアメリカに渡ろうというのはなかなか無謀かもしれない。帰ったらまず、炊飯器と洗濯機の使い方を母親に聞いてみようと思った。
「で、ホットプレートがあると便利だっていうのは木暮が教えてくれたんだ」
「コグレ先輩?」
 三井の口から出た同じく2つ年上の先輩の名前に、思わず反応する。
「そうそう。あいつも都内で一人暮らししてるだろ? たまに電話するんだよ。今度流川が来るからメシどうすっかなーって話をしたら、ホットプレートおすすめだぞって」
「ナルホド」
 昨年の夏にバスケ部に復帰して以来、いい関係を築けているという木暮には流川との関係を打ち明けたと言っていた。なかなか他人には言えないような類の話も木暮には相談できる、とも。だからといってあの木暮が二人の関係に余計な口出しをしてくるはずもなく、ありがたいことに温かく見守ってくれているらしい。
「木暮の言った通り、本当に便利でさー。この前、部活のやつらとウチで飲み会した時も重宝したわ」
「部活のひと?」
「そう。同期に大阪出身のやつがいるんだけど、そいつの焼いたお好み焼きがうまいのなんのって。やっぱ関西人は違うよなぁ」
 初耳だ。
 途端、流川の胸の中になんともいえない不快感が渦巻く。
「ホラ、切れたやつからあっち持ってけよ。ついでにホットプレートの電源も入れておいてくれ」
「……うす」
 しかしそれを言葉にすることはできずに、その場はなんとなく流れた。
 
 用意してあった肉や野菜を片付けて〆の焼きそばまできれいに平らげると、さすがの流川の腹も満足したようで、その頃にはもう先ほどの不快感も影を潜めていた。
「ゴチソウサマでした」
「お粗末さまでした」
 そう言って、二人で手を合わせながら笑う。
 そうだ。自分にはやはり、三井が足りなかったのだ。
 自分にそう言い聞かせながら、流川は三井に顔を近づける。三井もその空気を感じ取り、そっと目を閉じた。
 ――まさに、その時。
 けたたましく、三井の携帯の着信音が鳴り響いた。思わず三井の身体がビクッと反応し、流川から離れていく。
「悪りぃ。ちょっとタンマ」
 そのまま三井が後ろのベッドに腰掛けるのを、流川は黙って見ていた。
 なんだか肩透かしを食らったような。
「――はい? いや、大丈夫だけど。なに? 明日の課題?」
 大学の友達だろうか。通話しながら、三井はリュックの中をガサゴソと探り始めた。
 流川そっちのけで探し物を始めた三井がなんだか気に食わなくて、後ろからぎゅっと抱きしめる。
「おいお前、やめろって……」
 慌てたような三井と目が合い、それに満足してその手を離した。
 そして、次の言葉で固まった。
「――あ、いや、今ちょっと高校の後輩が来てて……あ、あった。詳細、写真に撮って送るからちょっと待ってろ。うん、大丈夫。じゃあ、また明日」
 高校の後輩?
 三井はきっと、何の気なしにそんなことを言ったのだろう。それでも流川は、こちらに背を向けたまま携帯で写真を撮っている三井に責めるような口調で問う。
「今の電話の相手、誰?」
「大学の学部の同期だけど」
「名前は?」
 珍しく矢継ぎ早に聞いてくる流川とその頑なな態度が解せずに、三井も振り向きざま答える声は、思わず刺のあるようなものになってしまう。
「そんなのお前に関係ないだろ。てか急にどうしたんだよ?」
 それを聞いて、先ほど夕飯の準備中に感じた不快感が流川の中に再び蘇った。
 ――もう、我慢できない。
 思わずカッとなり、そのまま三井を床に押し倒した。
「おいっ、流川、本当にどうしたんだよ? ちょっと離せって」
「オレは先輩にとって、ただの後輩?」
「ちがっ……けど、おい流川、本当に……」
 三井はなんとかそこから逃れようともがくが、あまりの力の強さにびくともしない。
「ねぇ、先輩。このまま先輩のこと、抱きたいんだけど。いいよね?」
「は? お前、何言って――」
 流川の目を見ると、そのあまりの冷たさにぞっとした。
 本気だ。本気で怒っている。
「ダメに決まってるだろ! いいから離せ!」
「やだ、先輩が悪い」
 そう言って近づいてきた流川を、思わず蹴り飛ばした。
「ふっ……ざけんな! オレに触んじゃねぇ!」
 弾かれたように、流川も言い返す。
「先輩、オレはいつまで我慢すればいいの?」
 こんなに先輩のこと、好きなのにーーそして今まで見たこともないくらい傷ついたような流川の表情に、三井は思わず言葉を失った。

 どれだけそうやって見つめあっていただろうか。

「もういい」
 やがて流川は諦めたように、三井から視線を外した。
「先輩はオレのことなんてどうでもいいから、東京の大学に決めたんだろ」
 そしてそのまま乱暴に荷物を掴むやいなや、急に立ち上がった。
 あまりに突然の出来事に三井はその場から動くことができず、呆気にとられる。気がついた時には玄関からガチャン、とドアの閉まる音がしていた。
「おい、ちょっと待てって……流川!」
 その音で我に返り慌てて追いかけたが、流川の気配は既になかった。マンションの外に出てみても、そこにあったのは真っ暗闇と静寂だけで。
「くそっ……」
 誰に聞かせるわけでもなく、三井は吐き捨てる。
 一体どこで間違えた?
 そのまま力なく、誰もいないエントランスに座り込んだ。

 
 はぁ……と、流川は何回目かわからないため息をつき、携帯の画面に三井の番号を呼び出した。しかし呼び出しただけでどのボタンを押すわけでもなく、画面は再び真っ暗になった。
 
 先ほどリビングで偶然居合わせた、色恋沙汰に関して妙に聡い姉には「何、そのいつもに増して陰気くさい顔は?」と驚かれ「喧嘩したなら謝るのは早い方がいいわよ」というごもっともなアドバイスをもらったが、それができたらこんなに苦労はしない。それに、自分から謝るのはなんだか納得がいかない。
「今回のは向こうが悪いと思う」
 しかし、向こうが悪い、と完全に言い切れないのは、頭に血が上って思わず押し倒してしまったことに対して多少なりとも罪悪感があるわけで。
「でも、あんただって悪いところはゼロじゃないんでしょ?」
「それはそうだけど」
「なら、こっちも悪かったごめんなさい、でいいじゃない」
 そう言われ頭の中でシュミレートしてみるものの、いざ「ごめんなさい」のところでどうしても引っかかる。
 高校の後輩、お前には関係ない、ふざけるな、オレに触るな。三井から怒涛のように示された拒否の姿勢の数々がまだ飲み込めない。
 思い返すだけで痛い。できることなら、全部なかったことにしてしまいたい。それくらい、自分はそれらの言動に傷ついたのだ。
 すると、そんな流川の気持ちを見透かしたかように姉が続けた。
「喧嘩って、自分はこんなに傷ついたんだからって考え始めると泥試合になって終わらないよ? どこかでまぁいいか、ってしとかないと」
「……もう少し落ち着いたらまた考える」
「もー、頑固なんだからー」
 呆れたような口調に溜め息を重ねられ、いたたまれなくなった流川は無言で二階の自室に引き上げた。
 
 たしかに、自分にも悪いところはあった。きっと流川が謝ればすぐにすむ話なのだろう。しかしそれができずにいる。今までも大なり小なりの喧嘩をそれなりに繰り返してきたが、こんなふうに冷戦になったのは初めてだった。これまでは翌日学校で顔を合わせればなんとなく仲直りできていたし、こちらが悪いと思えば流川もすぐに謝っていた。しかし今回に限っては三井から謝ってほしいという気持ちが強すぎて、どうしても折れることができないのだ。
 握りしめた携帯を何度確かめてみても、着信はおろかメールすらも届いてはいない。そして三井はもう卒業してしまったので、今までのような“顔を合わせればなんとなく仲直り”のパターンは望めない。
 わかっていたことではあるが、今さらながら東京と神奈川の距離が憎い。
 それにこうやって自分が悶々と考えている間も、向こうは向こうで部活の仲間や学部の友達なんかと楽しく過ごしているのかもしれないわけで。
 なんだか自分ばかりが三井のことを好きみたいで――そこまで考えたところで流川は携帯を枕元に放り投げ、無理やり眠りについた。

 さすがにその喧嘩が部活に影響するほど流川もガキではなかったが、どうやら何かあったらしいということが周囲にダダ漏れになるくらいには流川は子供だった。
 そしてその探りは、今年もどういうわけか同じクラスになった石井のところへと入ってくる。
「おい石井、最近あいつどうしたんだよ?」
「知りませんよ、そんなの……本人に聞いてくださいよ」
 部活前、周りが近づくのが思わず憚れるような集中力でシューティングを繰り返す流川を横目に、それを案じた宮城と安田が石井にそっと声をかけた。当の流川の背中からは、話しかけるなオーラがありありと滲み出ている。
「教室でもいつもみたいに寝てはいるんですけど、イライラしてるというか……なんか近寄りづらくて、クラスメイトは誰も声かけてないです」
「学校で何かあったってわけじゃなさそうだね」
 それを聞いた安田が、視線を宮城の方に向ける。
「だな。部活に支障出てるわけじゃないから別にいいっちゃいいんだけどさー、なんかこっちが気ィ使うんだよな。やりにくいことこの上ナシ!」
「たしかに。調子悪いどころか、むしろ普段以上のパフォーマンスを発揮してるような気もするよね」
 三人がちらりと流川の方へ目をやると、見ている方が思わず「うわっ」と声を出してしまいそうになる程の跳躍力でちょうどリバースダンクを決めたところだった。
「なんか、いつもにも増して高く跳んでおります、って感じ」
「今の流川だったら空中歩けるんじゃね? それに最近は、花道のことすらガン無視だもんなぁ、あいつ」
「二人がギャンギャン喧嘩してたのがなんだか懐かしいです……」
 そんな流川を見て、すかさず同じようにダンクを決めた桜木が「キツネ、カッコつけてんじゃねー!」と突っかかっていくが、完全無視を決め込んでいるらしい流川は返事すらしない。その後も黙々とシュート練習を続ける流川に拍子抜けしたのか、桜木も首を傾げながら元にいた場所へと戻っていった。
「これで練習中にパス出さねぇとかラフプレイに走る、とかだったらオレも何か言えるんだけど、そういうわけでもねぇしなー」
「ただただイライラしてるって感じだよね。元気がないよりかはいいけど」
「とりあえず今は様子見しかなさそうですよね」
 石井のいたって平和な提案に上級生二人は「だな」と声を合わせて答えると、体育館に宮城の「練習始めるぞー! 集合!」という号令が響きわたった。

 そしてそんな流川の様子に周囲がだんだんと慣れてきた頃、彼は突然やってきた。
 まさに、青天の霹靂。実に奇襲がうまい男だった。

「チューーーーーッス!」

 それに思わず反応した流川は、声がした体育館の入口の方を向くと同時に目を見開いた。そこにいたのは、こんなところにいるはずのない、そして自分が一番会いたかったその人で。
 信じられない。会いたすぎて、とうとう幻覚まで見えるようになったのではないか。
 しかし、そうでないことは桜木の嬉しそうな返事でわかった。
「ミッチー! 久しぶりじゃねーか!」
 三井は懐かしそうに目を細めると「お前ら、元気にやってるかぁ?」と声をかけながら、バッシュも履かずにパタパタとこちらへやってきた。
「お、本当に来たね、三井サン」
「ぬ? リョーちんはミッチーが来ること知ってたのか?」
 一人だけ驚かずにニヤリと笑った宮城を見て、桜木が不思議そうに尋ねる。
「あぁ、オレと安西先生は一応な。でも、三井サンがみんなには黙っててくれって言うから」
「なんだ、水くせーじゃねーか、ミッチー!」
「まぁいいじゃねぇか。お前らをびっくりさせたかったんだよ」
 まだ状況が飲み込めずにいる流川は、ハハハと笑った三井をちらりと窺うと、合いそうになった視線が既のところで三井の方から外れた。
 ――逸らされた?
 自分が頑なになりすぎたのだろうか。それでも。
「安西先生、ご無沙汰してます」
「ホッホッホッ、元気そうですね、三井くん。大学でも活躍していると聞いていますよ」
「おかげさまでなんとか。今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ。久しぶりに君のプレイが見られるのを楽しみにしていますよ」
 よかったら後輩たちの指導もしてあげてください、という安西の言葉に嬉しそうな笑顔で頷くと、三井はバッシュを履いて端の方でストレッチを始めた。

 練習に入った三井を横目で見ながら、先輩はオレとの関係を終わらせに来たのかもしれない、となんとなく流川は思った。
 先日、姉に諭されたことがこの期に及んで痛い。
『自分はこんなに傷ついたんだからって考え始めると泥試合になって終わらないよ?』
 泥試合になって終わらないどころか、関係そのものが終わりそうです。
 こんなことになるなら「今回は向こうが悪い」なんてくだらない意地を張っていないで、さっさと謝ってしまえばよかった。でも、そんなものは所詮タラレバだ。そう思っている時点で、大抵のことは後の祭りなのだ。
 それでも、本当に今日で終わりならば、せめて。
 先輩がバスケをしているその姿を目に焼き付けていたいと、流川は相変わらず美しい三井のスリーポイントシュートをじっと見つめた。

「ありがとうございましたー!」

 練習終わり、一年生が片付けをする横で上級生たちがわらわらと三井の周りに集まる。
「三井サン、今日は実家に泊まってくんですか?」
「いや、明日は朝から練習だからすぐに東京に戻らなくちゃなんねーんだ」
「え。マジでアンタ、何しに来たんですか?」
「おい、宮城! いい加減テメーは先輩を敬えよ!」
 そんな楽しそうな輪の中に入ることもなく、流川はいつものように居残り練習の準備を始めた。結局、練習中も三井とは必要最低限のコミュニケーションしか取ることはできず、彼の眩しい笑顔を見ているのは、さすがに今はキツかった。この先輩の周りには、いつもこうやって自然と人が集まって来る。きっと大学でも同じなのだろう――と、思考が再びそっちの方へいきそうになったので、フルフルと頭を振り強引にそれを打ち消した。
「ミッチー! 東京に戻る前に、久しぶりにラーメンでも食ってこーぜ!」
「あ、いいっすね。大学の話とか聞かせてくださいよ。憧れのキャンパスライフ!」
「あぁ……でも、今日の優先順位は流川なんだ。悪りぃな」
 ――は? と、流川と桜木が訝しげな視線を三井に向けたのは同時だった。
「え? なんでキツネ?」
「こいつの居残り練習見てやるって前から約束してたんだよ」
 な、流川? と三井がこちらを向くが、そんな約束した覚えがない。むしろあれから連絡すら取っていなかったというのに、約束なんかできるわけがない。
「ずりーぞ、キツネ! ミッチーを独り占めするなんて!」
 それならオレも残って練習していく! とギャンギャン騒ぐ桜木に、ポカンとその場で固まる流川。そんな後輩二人の様子――主に流川の――を見た察しのいい宮城は、桜木の肩をポンと叩いて声をかけた。
「それなら仕方ねぇなー花道。今日はオレとラーメン食って帰ろーぜ?」
「で、でもよぉ、リョーちん……」
「んだよ? オレと二人じゃ不服か? せっかく奢ってやろーと思ってたのになぁ」
 さも残念そうに宮城がそう言うと、桜木は目を輝かせて「リョーちんの奢り!? まじか! それなら早く行こーぜ!」と荷物を持って一目散に体育館の外へ飛び出していった。さすがは神奈川No.1ガード。コートの中でも外でも手綱の握り方は完璧だ。桜木の扱い方をよくわかっている。
「おーい1年! お前らもそろそろ片付け終わりにして上がれー」
 下級生にそう声をかけると、宮城は意味深な笑みを三井に向けた。
「じゃあ、そういうことで。三井サン、この借りはいつか返してもらうからね?」
「あぁ、ありがとな、宮城。助かった」
 やはり持つべきものは、察しのいい後輩だ。
 そんな出来のいい宮城は、ひらひらと右手を振りながら「あとはごゆっくりー」と言い残して外の暗闇へと消えていった。

「さて……」 
 体育館に二人きりになった三井は、未だその場から動けずにいる流川の顔を覗きこんだ。
「じゃあ流川、久しぶりにワンオンでもやろーぜ」
「……は?」
「なんだよ? オレが相手じゃ不満か?」
「そうじゃねー……っすけど」
 なんで連絡くれなかったの? オレのこと嫌いになったの? このまま別れるつもりなの?
 聞きたいことは山ほどあるはずなのに、なんだかどれも違う気がしてうまく言葉にできない。
「……先輩、今日はなんでわざわざ来てくれたの?」
 知りたいけど、知りたくない。
 流川が喉の奥から懸命にそう絞り出すと、三井はその顔にいたずらな笑みを浮かべた。
「そうだなー、お前が勝ったら教えてやるよ」
「先輩が勝ったら?」
「オレの言うこと何でも聞け」
 ポンと流川が三井にボールを放り投げた。
「乗った」
「そうこなくっちゃ」
 二人が付き合うようになってからというもの、勝負は毎回三井が先行だった。理由を尋ねると、さも当然かのように「オレの方が年上だから」と言い放った。そんな俺様な先輩が好きだった。いや、今でも好きだ。その気持ちは変わっていない。
「5点先取ね」
「よし。いくぜ、流川」
 二人の視線が絡み合う。流川の目に、もう迷いはない。
 そして三井との最後の思い出がワンオンならば、それはそれで本望かもしれないな、なんて思った。

「あー! あと少しだったのによー!」
 互いに入れたり入れられたりと紙一重の攻防を繰り返しながら、この勝負は結局5対4の僅差で流川が勝った。
 流川が放った最後の1本がゴールへ吸い込まれたのを見届けると、三井は体育館の床に大の字になってゴロンと寝転んだ。しかしその言葉とは裏腹に、表情はとても晴れやかだ。
「……先輩、コレ」
 流川は体育館の外の自販機で買ったポカリの缶を手渡した。
「お、サンキュー。なぁ流川、お前またうまくなったなー」
「……ッス」 
 嬉しそうな笑顔を浮かべる三井を、流川はわけがわからないというように見つめた。
 この人は何でこんなに楽しそうなのだろう? 別れを言いに来たんじゃないのか。
「ねぇ、先輩……」
「わかってるよ。そう急かすなよ」
 三井はそう言って流川から視線を外すと、手の甲をひたいに当てて目を瞑った。
「ごめん」
「……え?」
「ごめんな、流川。オレ、いろいろ言いすぎたし無神経だったよな。それに、今日まで連絡もしないで悪かった。本当にごめん」
 三井は寝転んだまま言葉を続ける。
「今日はお前に謝りに来た」
「先輩……」
 それを聞いた流川は、迷わず手を差し出した。そこに隠れた流川の本音と建前が三井にもわかったので、その手に素直に甘えることにした。
「オレの方こそ意地張っててごめんなさい。このまま先輩にフラれるの覚悟してた」
「……は?」
「てっきり先輩は今日、オレのことフリに来たんだと……」
 大真面目な顔でそんなことを言う流川を見て、三井はプッと吹き出した。
「んなわけねーだろ?」
「だって、いくら待っても先輩から連絡こないし、オレのことなんてもうどうでもいいのかと」
「悪かったって。何て謝ったらいいかわかんなかったんだよ。でも電話とかメールで言うんじゃ違うよな、とか考え始めたらどんどん時間だけ経っちまって。で、うじうじ悩んでても仕方ねーから直接会って話そうと思って」
 お前に会いに来た、と流川の髪をわしゃわしゃ撫でながら三井は笑った。久しぶりのその感触が心地よくて、それを味わうように流川は目を瞑る。そしてつい、本音がこぼれた。
「多分、オレ、寂しかったんです」
「ん?」
「高校卒業して、先輩が遠くに行っちゃう気がして。オレの知らない世界で、オレの知らない人たちと過ごしているのにシット……してたんだと思う」
 三井は撫でる手を止めない。
「それにすげー焦って。先輩にオレは必要ないんじゃないかって。なんとか先輩をつなぎとめくて、あんな無理やり……本当にすみませんでした」
 そう言ってぺこりと頭を下げる流川に、三井は何を言うわけでもなく自然と唇を重ねていた。
 一瞬離れ、そしてほとんど重ねたままで呟いた。 
「バーカ、オレだって不安なんだよ。出会ってからずっとお前のモテっぷりを見てきてるこっちの身にもなってみろ?」
「不安? 先輩が?」
 そしてもう一度唇を塞ぎ、驚いた様子の流川に吐き出した。
「だってお前、バカみたいにモテんじゃん。余裕なんか全然ねーよ。もしもファンの中の誰かを好きになっちまったら、なんて恐くて考えたくもない」
「そんなこと」
 あるわけない、と今度は流川から強引に唇を奪った。
「ん……る、かっ……」
 舌を絡めとり、懸命に声をこらえる三井を追い立てるように深いキスをする。
 初めて三井とキスをしたのも、練習後の体育館だった。当たり前だがその時はこんな激しいキスではなくて、ただ触れるだけの。まるで、ままごとのような。
「……ん、ふぅ……」
 何度も角度を変えながら互いの唇を味わい、やがて思考も飲み込まれそうになったところでふと三井が我に返り、流川の胸をそっと押し返した。
「今日は、ここまで」
 不服そうな眼差しで「どうして?」と訴える流川が何か言う前に、言葉を重ねた。
「この先がしたかったら、インターハイが終わった後にオレのトコ泊まりに来い」
 その言葉に、思わず流川が目を見開く。
「先輩、それって……」
「これ以上は言わすなよ? 恥ずかしすぎて軽く死ねるから」
「……っす」
 この先は色々察しろ、ということなのだろう。流川は素直に頷いた。
「あーあ。オレがワンオン勝ったらお前に謝らせようと思ってたのによー」
 照れ隠しなのか、おちゃらけたように笑う三井をそのままぎゅっと抱きしめる。

 そして、会えなかったこの数週間を埋めるかのように、二人は誰もいない体育館の床に座りながら色々な話をした。

「オレさぁ、将来高校の教員になりたいんだよ」
「先生? 大学卒業したら、もうバスケは続けないの?」
 初めて聞く三井の将来図に少し驚きながらも、流川は続きを促す。
「うーん、正確にいうと高校バスケを教えたいんだよな。ホラ、安西先生みたいな?」
「さすが安西先生ファンクラブ……」
 それ久しぶりに聞いたな、と三井は懐かしそうに笑った。
「今日改めて思ったんだけど、やっぱお前たちと一緒に練習するのもいいけど教えるのも好きなんだよ、オレ」
 よかったら後輩たちの指導もしてあげてください、という安西の言葉通り、三井は練習中、熱心に後輩たちの指導に当たっていた。それはシュートフォームやボールのもらい方、身体の使い方やボールのないところでのポジション取りまで多種多様に渡り、なるほど全体を俯瞰的に見つつ細かいところまでよく気づくものだと流川も感心した。そういえば、高校時代もよく桜木に指導していたなと思い出す。
「で、推薦来てた中で高校の教員免許取れるトコっていうのが、今の大学だったんだよな。それにバスケ部の監督もすごく熱心に誘ってくれて、信用できる人だなって思って決めたんだ」
 先輩はオレのことなんてどうでもいいから、東京の大学に決めたんだろ――同時に、先日自分が別れ際に三井に言い捨てた台詞を思い出した。今考えると、なんて子供じみていて恥ずかしい考えだったのだろう。三井は目先のことだけでなく、ずっと先のことまで考えて進路を決めていたというのに。
「先輩、ごめんなさい。オレ、自分のことしか考えてなくて」
「いや、オレももっと早くお前には話しておくべきだったんだ。お前が不安に感じてるなんて思いもしなかったから。ごめんな?」
 そう言って流川を撫でる手は、やはり優しい。
「で、いつか指導者として全国の決勝の舞台に立つのがオレの夢」
「夢……」
「ちなみに誰かにこれ言ったの、お前が初めてだから。流川の夢はNBAだろ?」
 お前が初めてだから、という三井の何気ない一言に心が踊る。
「いや、NBAでプレイするっていうのはあくまで通過点。オレはきっと、ファイナルに出てMVPまで獲るから」
 だから先輩、ずっとオレのこと見てて――熱っぽく見つめながら、流川は言った。
「いいぜ? その瞬間はぜひ、現地で見届けたいモンだなぁ」
 三井はいたずらっぽく笑って、ぽんと流川の頭を叩く。
「ま、とりあえずのところ、お前はIHの切符をつかむことだ。今年も神奈川は激戦区だろ?」
「……っす」
 三井の言う通り、去年とほとんどスタメンが変わらない陵南をはじめ、県下絶対王者の海南、今年も安定した仕上がりを見せてくるであろう翔陽など、湘北が倒さなけらばならない敵はどこも手強い。それに加え、流川には引き続き「日本一の高校生になる」という大きな目標もあるわけで。
「期待してるぜ、日本一の高校生」
 流川が大きく頷くのを満足げに眺めた三井は「そろそろ帰るか」と、先に立ち上がって流川に手を差し出した。先ほどの自分と同様、自分で立てないわけではなかったが、そこには三井の本音と建前が隠れていることが流川にも分かったので、素直にその手に甘えた。

 帰り道、久しぶりに自転車の後ろに三井を乗せて最寄りの駅まで走った。
「やっぱり二人乗りは、お前の後ろに乗る方がしっくりくるな」なんて言う三井にコクリと頷きながら、できるだけゆっくりペダルを漕いだ。しかしそれでも、やはり駅に着くのはあっという間で。後ろの温もりが離れていくのが惜しく、別れがたい。
「じゃあな、流川。遅くまで悪かったな」
「全然。先輩も、気をつけて帰って」
「あぁ、また連絡するわ」
 すると、三井がおもむろに「ん」と手をグーにして伸ばして来た。
 サヨナラの握手? と、流川が不思議そうに首を傾げれば「なんだよ。お前も手ぇ出せって」と笑うので、素直に手を差し出した。
 そして、ひんやりとした感触とともに流川の手のひらに載せられたのは、控えめな輝きを放つシンプルなシルバーリング。
「先輩、これ……」
「なんつーか、虫除け、的な?」
 流川はこの夏、今まで以上にその名を全国に轟かせることになるだろう、と三井は思っている。昨年とは注目度も桁外れだろうし、チャンスだってゴロゴロと転がってくるに違いない。そんな風にして彼が新しく切り開いていく世界の中で、自分を思い出す手がかりをその指に持っていてほしいと思うのはわがままだろうか。
「これってもしかして」
「あぁ、ペアリングってやつだ」
 流川は指輪をくるくると回しながら、嬉しそうにそれを眺めている。
「ずっとつけてる」
「いや、バスケする時は外せよ。普通に危ないから」
「ありがとうございます、先輩」
 話が通じているのかいないのかよくわからないが、とりあえず流川が嬉しそうなのを見てホッとした。
「なんか縛るみたいで、もしかしたらお前は嫌がるかなー、とも思ったんだけど喜んでくれたならよかったよ」
「先輩に縛られるなら本望」
「は? バカだろ、お前」
 大真面目にそんな台詞を吐く流川に苦笑しながらも、三井とて流川になら縛られても全然嫌ではないことに気づいたので、自分も大概重症かもしれないな、と思った。

 それから後日、流川の薬指にペアリングらしき指輪が嵌められていたというニュースが学校中に駆け巡り、大量の女子生徒が阿鼻叫喚の様相を呈していたというのは、三井の知るところではなかった。


 大学の部活の夏休みは、お盆の時期に合わせた5連休だった。
 実家には「友達と旅行に行くから帰省はしない」と嘘をつき、東京に残ることにした。もともと電車で気楽に帰れる距離なので、連絡を受けた母親も特に気にした様子ではなかった。後日、適当に日帰りで顔を見せれば問題ないだろう。次回、流川が来た時に合わせてそのまま一緒に帰ってもいいかもしれない。
 そんなことを考えながら、自分の横でベッドに腰掛け、ぼーっとテレビを観ているんだかいないんだかよくわからない流川を盗み見た。
 今からこいつに抱かれるんだよな、なんて想像するとどうも落ち着かない。「一緒に風呂に入りたい」とねだる流川を「狭いから。無理だから」となんとかなだめすかし、自分の方も色々と準備したところで今に至るわけで。
 そして同じく風呂上がりの流川の首元は普段よりも赤く染まっていて、なんだか妙に色っぽい。
 ――いやいや、何を考えてんだオレは……。
 そんな自分の邪念を振り払うかのように、三井はぶんぶんと首を振り慌てて話しかけた。
「それにしてもいい試合だったなー、インターハイ。あともうちょいで準決まで残れたんだもんなぁ。さすがは山王。同じ相手に2度は負けない、か」
「宮城キャプテンは、ベスト8まで進んだから湘北の歴史を塗り替えた世代だって騒いでた」
 そんな宮城の様子を想像して「あいつらしいな」とおかしそうに笑う。
「てかお前、今日オレのトコ泊まるってちゃんとウチの人には言ってきたんだよな? 何も言われなかったのか?」
「大丈夫」
 そう言い切る流川に、どうしてかと首をかしげると「ウチは母さんも姉ちゃんも先輩のファンだから」と事もなげに答えた。
「あー……たしかに」
 以前、流川家へ泊まりに行った時の大歓迎ぶりを思い出す。
「先輩にヨロシクって。本当は先輩が休みの間ずっと泊まりたかったけど、ジュニア合宿があるから。残念」
「いいじゃねーか。それこそ山王のヤツらとか、今年は仙道あたりも呼ばれてるんだろ?」
 こくり、と流川は頷く。
「冬こそは日本一の高校生になれるように、強いヤツらと思う存分勝負してこいよ」
「うん。でも今日は、先輩と勝負の日だから」
 そうだよね?
 言いながら、三井をベッドに押し倒した。
「ちょ、待っ……電気くらい消せって」
 この期に及んで急に慌て始めた三井に内心苦笑しつつも、流川は言われた通り近くにあったリモコンで部屋の電気を消した。
 三井を触るその手は、先日言い合いになったときとは比べ物にならないくらい優しい。

 ――先輩、オレはいつまで我慢すればいいの? 

「流川、ごめんな」
 本当は気づいていたのに、ずっと気づかないふりをしていた。
 きっと、流川に我慢をさせている。
 激しいキスと優しい指使い。自分もその先に進みたい気持ちはあった。でも、怖かった。その先に進んでしまったら、もう元には戻れないような気がした。
 しかしそれよりも、もっと怖かったのは。本当は。
「怖かった。お前の未来を縛っちまうんじゃないかって」
「言ったでしょ? 先輩に縛られるなら本望」
 流川は三井の髪を優しく梳きながら、当たり前でしょ、というように答える。
「先輩は、もっとオレのことを頼ってほしい」
 流川との未来を考えて思わず躊躇してしまうくらい三井は自分のことを好いていてくれているし、自分もそんな三井のことが好きだ。
 二歳の差は、どんなにあがいたって埋まらない。それにこの先、三井の世界が広がっていくことも流川の世界が広がっていくことだって、誰にも止めることはできないのだ。
 だから流川は印をつける。唇に、首筋に、胸元に。新しい世界の中で会えない時、いつでも三井が自分のことを思い出すように。
 覚悟はとっくにできている。
「だけど……」
「いいからもう黙って」
 まだ何か言いたそうにしている優柔不断な唇を強引に奪った。三井もされるがまま、強引に再開された激しいキスに没頭する。
 ーーなんだこれ、気持ちいい。
「……ふ、はぁ……んっ」
 漏れ出る声が堪えきれない。
「あっ……っはぁ、あ」
「……ん、せんぱ、ッ……」
 男とヤるのなんてもちろんハジメテだから、快感だけを得られるわけではない。
 しかしそれ以上に感じるのは、今まで悩んでいたのは何だったのだろう、とバカらしくなってしまうほどの多幸感。
 普段はガンガン攻めるオフェンスの鬼のくせに、自分を気遣う素振りの流川を見たら、なんだか急に泣きそうになる。だってこんな、大事にされていると自覚せざるを得ないくらいの。
 初めて知った。好きな相手とのセックスは、すごく気持ちよくて、すごく疲れるけれど、ものすごく幸せだということを。

 その夜は当たり前だが一回では終わらなくて、どちらからともなく始まった何回目かの途中で三井は記憶を手放した。

 翌日、三井はカーテンの隙間から覗く太陽の光で目が覚めた。
 結局昨夜は何回戦まで進んだのかどうか定かではないが、とにかく気持ちよかったことだけは覚えている。そして腰から下が痺れているのは、おそらくその後遺症だろう。起き抜けに熱いコーヒーが飲みたいところだが、なんせだるくて全く起き上がる気になれない。
 困ったな――とごろんと寝返りをうったところで、思い切り流川と目が合った。
「な……んだよお前、起きてたの? 珍しいな」
「なんか今日は目覚めがよかった」
 切れ長の目を細め、まるで慈しむかのような視線を向けてくる流川になんとなく気恥ずかしくなり、三井はそのさらさらの黒髪を優しく撫でる。
 そういえば、先輩に触られるのは初めから嫌じゃなかったな――と三井に撫でられながら、流川はふと昨年の夏合宿を思い出した。
 流川はもともと他人に触られることはおろか、家族以外の人間が自分の空間にいること自体が好きではなかった。一人でいることが楽だったし特に何の不満もなかったので、きっと自分は一生このまま一人で生きていくのだと思っていた。
 それなのに、三井と出会ってから全てが変わった。誰かが隣にいた方が心安らぐなんて生まれて初めての経験で、そのあたたかさを知ってしまったら、それを知らなかった頃の自分には戻れなかった。三井はいつのまにか、ごく自然に流川の心の真ん中に触れていたのだ。
「ねぇ、先輩?」
 いつもより少し甘えを含んだ流川の声にどうしたのかと三井が窺うと、その長い腕に絡みとられた。
「重いって。どうしたんだよ、急に」
「一人に戻るなんて、もう絶対ムリ」
 そう言った流川が、ぎゅっと三井を抱え込んだ。そして三井の髪に顔を押し付けて、すぅっと息を吸い込む。
 あぁ、三井の匂いだ。
「先輩のせいだから、責任とってください」
「責任とれったって、どうやって」
「それは先輩が考えてください」
 こういう時だけ、流川は思い出したかのように敬語を使う。
「そんなモン知るか!」
 それに気づいた三井はその腕から離れようと身体をよじらせるが、流川は意地でも離さない。こうなってしまうと、そこから逃れるのは至難の業だ。
「あーもう……」
 早々に諦めた三井は、力を抜いてそのまま流川に身体を預けた。
「それじゃ……さ、一人にならないようにいつか一緒に住んだらいいんじゃね? そりゃ今すぐはムリだけど、もっと大人になってお互いにそれなりに稼げるようになったら、さ」
 最後の方は言っている自分の方が恥ずかしくなってしまい、なんとなくゴニョゴニョ濁してしまったが、当の流川といえば間近でじっと三井を見つめている。
「……ンだよ」
 これ以外は思いつかねぇぞ、と言いかけたところに優しく唇が塞がれた。
「先輩、大好き」
「……それはどうも」
 あまりの小っ恥ずかしさに耐えきれず顔をそむけようとしたが、流川がそれを許さず両手でぐっと三井の顔を固定した。
「ねぇ、先輩?」
 甘えの消えた、真剣な声と眼差し。そのあまりに整った顔に、三井は思わず息を呑む。

「先輩からしたらオレなんてまだまだ高校生のガキだと思うけど、いつか絶対先輩が安心して頼ってこられるような男になるから、ずっとオレのそばにいてください」

 無愛想で口下手な男の精一杯の愛情表現に、三井は一瞬言葉を失う。
 ――そんなの、もう十分だ。
 “大学生”と“高校生”というわかりやすい肩書きがあるうちは自分が年上ぶっていられるが、そのうち流川はきっと想像が追いつかないくらい大きな影響力をもつ男になるのだろう。だからどうしたって今だけは、目の前にいるこの年下の恋人をひたすらに甘やかしたくなってしまうのだ。
「流川、好きだよ」
 返事の代わりにそう言うと、そのまま口づけて思い切り抱きしめる。
「……多分オレの方が先輩の10倍くらい先輩のこと好きだと思う」
「出たよ、負けず嫌い」
 呆れたように三井が笑うと、流川は「先輩にだけは言われたくないっす」と言いながら、むくりと起き上がった。その顔が真っ赤なのは、三井の位置からは見えない。
「どうした?」
「朝メシ、オレが作ります」
「え、お前料理できんの?」
「バカにしてる? パン焼いてドリップコーヒー淹れるくらいならできるから。それに先輩、ハジメテだったから疲れてるでしょ。いいから寝てて」
 言いつつ、流川はベッドのすぐそばのカーテンを開けた。思った以上に日差しが強くて、思わず目を細める。
「朝起きたら隣に先輩がいるの、なんかすごくいいなぁって思った」
 そして流川がキッチンへ向かう。甘やかされているのはもしかしたら自分の方なのかもしれない、なんて思いながら、三井は横になったままその背中を見送った。

 流川と一緒に暮らす、そんな日がいつか来るのだろうか。
 きっと、悪くない。「おやすみ」を言ったあとも一緒にいられて、新しい一日の始まりに二人で一緒に目を覚ます。そして一日中一緒に過ごしたら、一晩中ぴったり寄り添って眠るのだ。共に過ごす幸せな時の中、ひとつひとつのキスが果てしなく続いたらいいのに。
 今よりずっと、いいはずだ。
 一緒にいられるだけで幸せだなんて、素敵じゃないか。

 そんなことを考えていたら、いつの間にかキッチンからトーストが焼けた音と一緒にコーヒーの香ばしい香りが流れてきたので、三井はグイッとひとつ大きな伸びをした。

▶︎ to be continued…